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ゆれるパフォーマンス  

 

選評

大岡信(詩人)

 「今年は応募数もふえ、それ以上に、水準がぐんとあがりまして」という編集部

の声はその通りでした。

 応募作を読んで草月会にある種のルネッサンスが生じつつあるという思いを新

たにしました。

 全体を通じて、自分の考えを自由に展開していこうとするねばり強さと開放性が

目立ちます。

 また、特に今回の課題テーマのひとつ「時間をいけるいけばな」の場合など、多

くの書物を読んで勉強したあとがいちじるしいものが多く、その意気ごみに感銘を

うけました。

  (中略)

 もう一人、T氏と桔抗する優秀な論文に長谷川春生「ゆれるパフォーマンス」が

ありました。

 論の構成力にすぐれ、着眼も新鮮、しかも文章がうわついていない点で一頭地

を抜いていましたが、何といっても長谷川氏は昨年度の入賞者。

 もうこの辺で応募原稿ではない原稿を本誌に書いてもらってもいい人ではない

かという考えもあり、結局特別賞としました。

 

中原佑介(美術評論家)

今回は、一次選考を通過した20篇の論文を読むことになったが、まず、これまで

に較べて、全体的にレベルが向上しているという印象を抱いた。

 とりわけ、「時間をいけるいけばな」というテーマに力作が多く見られたように思

う。 それは多分、このテーマにいけばなの現在の問題が凝縮した形であらわれ

ているという筆者たちの認識に依ったところも大きかったのではあるまいか。

 長谷川春生さんの論文は直接このテーマに応えたものではないが、パフォーマ

ンスのゆれという視点からいけばなを把えたのは、一種の独自ないけばな時間

論といえなくもない。

 パフォーマンスはいけばなの目的ではなく、いけばな活性化の手段だという指

摘はきわめて興味深いと思う。

 はなはだ刺戟的な好論文だが、前回の入選作の筆者でもあり、特別賞がふさ

わしいということにした。

 

 

 

ゆれるパフォーマンス                         

 いけばな史の流れをたどっていくと、そこには三つの特性が浮上してくる。自然

性、様式性、パフォーマンス性がそれである。

 このうち前二者は常に対立した概念として、微妙なバランスをとりながら展開し

、それらの間をパフォーマンスが仲介して、様々ないけばな美学が追求されてきた。

 パフォーマンスという言葉は、中村雄二郎氏によれば「1成就、履行、達成とい

う遂行の面の強調、2音楽の演奏や芝居の演技のように身を以て演ずる身体行

為の面の強調の二つの場合があり、多くの局面を待った全過程をやりぬくこと」(

註1)であると言う。

 ここで注目すべきは、パフォーマンスの力が強い時代ほど、いけばな造形の世

界が魅力的に見えることである。

 それは具体的にいえば中世から安土桃山にかけてであり戦後二十年ほどの時

間である。

 現在のいけばな界は大きな波が静まり、その中で新しい造形表現を模索しつつ

、徐々に上昇力を蓄えているように思える。

  このターニングポイント(転換期)にあたって、私はパフォーマンスの持つ意味

を再考してみたい。

 そのためには遠回りのようだが、前半部において様式性と自然性との係わり合

いについて考察することが必要になる。

 

    日本文化に溢れる自然への片想い

  自然の山野にある生命体を使って、なぜもうひとつの世界を作り上げねばなら

なかったのか。

 いけばなはその出発点から大きな矛盾をはらんでいた。

 ここでは過去の時間に光を当て、日本人の心の深層にひそむ、自然に対する

態度を探っていきたい。

 日本列島は照葉樹林帯に属し、夏は高温多湿で植物の成育には非常に有利

な条件を持っている。(註2)

 地形的にもヴァラエティに富む自然の表情を有し、島国であるため一種の隔離

された世界でもある。

 狩猟採集経済を中心とした縄文時代(註3)が長期間続いたのも、この自然の

恩恵により、海、山の幸が比較的手に入りやすかったためであろう。

 上山春平氏によると、早期の縄文から弥生に至る数千年の間にかなり高度な

文化が発達し、その狩猟採集性または自然性といったものが、日本文化の基底

の中心部を作り、常に外来文化に対するフィルターの役割を担っていたのではな

いかという(註4)。

 時間的にも空間的にも大きな広がりを見せた縄文時代、そこに生きた人間たち

は生命の母として自然と交わり、深い共生感、密着感を得ていた。

 しかし、弥生時代に入ると農耕のために森の樹木が切り倒され、人間と自然と

の間に距離が出始め、ひいては断絶してしまうことになる。

 そこでは自分たちの財(農作物)を守り育てていくため、日々自然との緊張関係

をしいられた。

 しかし、一方で日本人は自然や植物に対する愛着を風土的条件によって、ほと

んど生来的に持たされてもいた。

 だから野に咲く花を慈しみ、それをできるだけ身近なものにしようとしたのであ

る。

 だが、自然は独自の秩序を形成して、それだけで確固とした生命の世界を自立

させていた。

 人間はどうにかして、この美しく整然とした宇宙体系の中に入り込もうと努力し

た。

 縄文人は天性の素朴さから、自然界と一体化することに成功した奇跡の人間

たちだったのではないか。

 けれどもそれに続くポスト縄文の人間たちにはもう二度とその奇跡は起らなか

った。

 自然への片想いは通奏低音として、一貫して日本文化史に流れることになる。

 それは着物の文様であり、季節の和菓子であり、紅梅白梅図屏風であった。

 この矛盾を乗り越えるため、彼らは自然を傷つけ変形して自分のものにすると

いう、逆説的な愛情表現を試みるようになる。

  むくわれぬ想いをそこにぶつけて、自分たちの心の中のカオスを統合し方向

付けることで、自然の秩序とは違う、もうひとつの象徴世界を作ろうとした。

 それは自然を殺すことでもあり、生かすことでもあった。

 樹木(自然)は人間社会が豊かになっていくための、一種のスケープゴートとな

り、人間たちは自然に対する犯罪性(侵略性)を消そうとするかのように樹木を神

格化し、神の影向するものとして崇めた。

 切り倒された樹木は改めて、新しい神の宇宙を創造するために立てられた。

 自然の生命は人間のイメージの世界で再び甦ったのだ。

 いけばなの原初の姿は決して美しい花をいけたのではなかった。

 遠い過去の縄文期に培った自然性につき動かされ、樹木全体の美を発見した

日本人は、その中に永遠の時間を見出し、造形性に目覚めたのである。

 西欧人は花の色彩に魅了されはしたが、彼らの関心は花という、植物全体にと

ってはほんの一部分の美しさにしか向わなかった。

 そのために、すぐに散ってしまうひよわな素材で、何かを創り出そうなどという発

想が浮かばなかったのではなかろうか。

現在、西欧やアメリカの花屋をのぞいても、そこで見られるのはほとんど花だけ

で、枝ものは全くない。

 それは西欧人がフラワーデコレーションを発達させはしたが、決して植物を造

 

形する思想にはいきつかなかったという事実を物語る。

 ある日、将軍足利義政のもとに薄紅梅一枝と水仙が献上された。

 義政は同朋衆で、立て花の名人と言われている立阿弥をわざわざ病床から呼

び寄せ、これを花瓶にいけさせた。

 花は見事に立てられ、義政は立阿弥の労をねぎらったという。

 古来、日本では花枝を贈る習慣があった。

 これは単なる贈答ではない。

 謝意を、花を立てるという行為で示したのである。

 物と心の交換であった。

 

 そしてそれは自然と人間との交感(の幻想)でもあった。

 

 植物をある種の財として認め、豊かな自然を味わうことと、その財を変化させる

ことによってもうひとつの自然を味わうということ。

 言いかえれば、縄文的な生き方と弥生以後の生き方とのアンビバレンツ(二律

背反)が日本人の自然に対する心的特性であり、その中にいけばなという特殊な

、自然との交わりの術を見出していくと考えるのも、そう間違いではなさそうに思

われる。

註1=中村雄二郎「演劇的知とパフォーマンス」(「記号学研究2 パフォーマンス」)より

 

 また、現代美術の方面からの定義は次のようになる。

「芸術家によってなされる何らかの身体的表現を一般にパフォーマンスと呼ぶ。

 それは作品制作の基本であったり、既成の芸術を打破しょうとする“生きた芸

術”であり、しばしば前衛芸術の最前線の役割を担ってきた。

 とりわけ今世紀に入ってからはイタリヤの未来派に端を発し、ロシア未来派、構

成主義、ダダイズム、超現実主義、バウハウスなどにおいて活発に試みられ、音

楽、文学、造型芸術、演劇など、さまざまなジャンルを包含する一種の総合芸術

を具現する表現手段として発展した。(以下略)」

 「美術手帖」1984年3月号より

                      

 註2=それに反し「ヨーロッパは冷温帯落葉広葉樹林帯に属し、夏の雨量不足

と涼しさは植物の繁茂力を抑制した。

 また地中海沿岸は広葉樹林帯に属すが、一度伐採されると復活が遅い」

 吉良竜夫「日本文化の自然環境」(「日本文化の構造」講談社現代新書より)

 

 註3=「現在、縄文時代の後「晩期からの遺跡からはイネやソバ、豆類などの種

子や花粉が検出されており、何らかの作物栽培(照葉樹林焼畑農耕文化)が行

なわれていたことが明らかになりつつある。」

 佐々木高明著「照葉樹林文化の道」(日本放送出版協会より)

 

 註4…「日本人の好奇心とエネルギーの源泉」(日本文化の構造)より

 

 立て花と茶花が陥った大きな落とし穴

 この章では、様式性を追求していって壁にぶつかった立て花(註5)の流れと、

自由な発想に基盤をおいて出発した茶花が、結局、自然性に取り込まれていく過

程との二つを、枝葉を切り捨て単純化して検証してみたい。

両者はともに、室町時代の道具飾りの法式から発展して出てきたものである。

押板の前に置かれた三ツ具足の花が立て花の起こりであり、付書院や違い棚に

飾られた小品の投入花が茶花となった変遷は周知の通りである。

 中尾佐助氏によれば、室町時代において花卉園芸は飛躍的な発達を遂げ、そ

れも花木、つまり樹木性のものが主流を占めたという(証6)。

 立て花ではその樹木(真)を何にするかが極めて重要な関心事であった(註7)。

 それは当初においてはまだ、神の依代性といった宗教的な影響が残っていた

ためであろう。

 真は必ずまっすぐに立てられねばならず、前後左右には七つの役枝が配され、

どれも厳しい法によって格付けされていた。

 そこには垂直に対する当時の人々の好みが反映されており、また、パトロンで

あった権力者が、下剋上社会に対する示威として権威の象徴をそこに作ろうとし

た、とも考えられる。

 立てられた花は元禄期にいたると約十メートルにも達するほどの大規模なパフ

ォーマンスになったという(証8)。

 しかし、伊藤ていじ氏は「宇宙の象徴の発見がいけばなの理念上の出発点であ

るとしたら、それこそが同時にいけばなの因襲化と形式化の要因であった(証9)」

と言い切っている。

 この硬直性を打破するため、立て花作家はやがて真を中心線からずらす除心

や狂心という表現を発見していく。

 これは画期的な試みであり、より広い造形性をもたらした。

 池坊二代専好の充実した仕事や、江戸元禄期の大住院以信や富春軒仙渓な

どの見事な造形によって、それはさらにデフォルメされていった。

しかし、やはり立て花は垂直であったからこそ、立て花としての意味を有していた

とも考えられ、狂心の極端な展開は造形世界の広がりと反比例して、立て花宇宙

体系の理念の崩壊につながった。

 一方、茶花は小さいながらも画然とした世界を主張し、「わび・さび」という独特

な美意識の表現として、茶の湯芸術の中で洗練されていった。

 それは、最初は格にとらわれず自由に造形していこうとする姿勢に満ちていた。

 例えば花入れから朝顔のつるが伸びていき、茶室の窓の竹格子にからみつい

ているもの(註10)とか、鶴首の花入れに水ばかり入れて飾ってあった例(証11)

など、相当思い切った個性的な表現が見られた。

 しかし、素材である植物の持つ強烈な個性や具体性は、いつしか茶人たちを取

り込み始める。

 「小座敷の花ハ、かならず一色を一枝か二枝かろくいけたるがよし、勿論花に

よりてふわふわといけたるもよけれど…」(註12)というような情緒的な花論は曖

昧さにも通じ、水のように自由な形を志向したにもかかわらず、植物という具体的

な器の中にあって、茶花はしだいにその形の広がりを収束させていってしまう。

 茶の湯思想も唐物偏重主義から和物を積極的に取り入れるようになり(註13)

、わび・さびの表現も最高潮に達した。が、その後和物をも中興名物(註14)にす

るなどして序列化していき、徐々に形式主義が浸透していく。

 茶花もそのような保守化傾向に併行して、非常におとなしい自然性へと落ち着

いていき、「花は野にある様」という自然主義的思考にすり代わっていくことになる。

 以上、簡単に見てきたように、立て花と茶花とは全く対立しつつ、お互いの内部

でも大きな矛盾をはらみながら、その形を展開していった。

 現在、私たちは立て花のおおらかな造形力や、茶花に見る自由な造形意志を

高く評価すべきだが、両者が陥っていった大きな落し穴にも着目し、そこから脱

出していかなければならない。

 これは現代まで長く尾をひいている問題であり、未解決のままなのである。

 とりわけ重要なポイントは両者の発展と衰退が、パフォーマンスのそれにオー

バーラップしていることだ。

 これは次章で考えてみたい。

  江戸時代には生花がもてはやされた。これは立て花(正)、茶花(反)の対立

によって止揚されたもの(合)ではなく、単純に言い切ることが許されるならば、立

て花の矮小化、茶花の格付け化に他ならない(証15)。

 生花が真の造形力を持てなかった最大の要図は「生花、山に生ふる草木、野

に咲く花、そのままの情に入るるなり」(註16)といったような素朴すぎる理論付け

にある。

 ここに至ってパフォーマンス性は消滅し、自然性と様式性が短絡して静止してし

まい、造形の本質からはほど遠い所に来てしまった感がある。

 これは文人花を経て、明治三十年代の盛花様式まで延々と続く。

 確かに盛花は禁花のタブーを破り、西洋花を積極的に導入して色彩を再発見

したが、結果的には自然性から抜け出るどころか、より強く自然主義を押し進め

ることになるのである。

 立て花と茶花の発展と衰退によって提起された問題は、1930年の重森三玲、

中山文甫、勅使河原蒼風らの「新興いけばな宣言」(註17)で初めて明確に受け

とめられたと言わねばならない。

 そしてその具体的実践の場(パフォーマンスの場)こそ、私たちが生きている「

いま」なのである。

 註5=ここでは単純化して考えたいため、立花(立華)をも含んだ用語として使いたぃ。

 註6=中尾佐助・上山春平対論 「日本文化の系譜」(徳間書店)より。

 註7=狂言「真奪」に当時の様子がうかがわれる。

 深草に真を取りにでかけた主人と太郎冠者は、道行人の持っているりっぱな真

に眼を止め、それを無心し奪い取ろうとするが、逆に太郎冠者の持っていた主人

の重代の太刀をすり取られてしまう話。南北朝期に成立か。

 証8=元禄五年(1692)三月三日、東大寺大仏の開眼供養において、猪飼三

枝、藤掛似水によって作られた立花は、花龍の高さ7.5尺(2.25メートル)、真は

立ち上がりから頂点まで32尺(9.7メートル)。

 天和元年(1681)十月十日、本能寺日蓮上人四百年忌において大住院以信

によって作られた立花は高さ12尺(3.64メートル)、横幅2間5尺(5.15メートル)。

 註9=「伝統とかたち」(建築文化再見1ー淡交社)より。

 註10=「図説いけばな大系 いけばなの文化史2」(角川書店)より。

 註11=「床に鶴ノハシ花入塗板ニ置て花ハ不入レニ水斗入」(「松屋日記」)

 註12=南方録』覚書

 著者である南坊宗啓は本書中、堺南宗寺塔頭集雲庵の首座とあるが、その実

在が確認されておらず、原本も発見されていない。加えて茶会記に不明確な点が

少なくないため、一部の識者からは偽書ではないかと見られている。

 註13=「此道の一大事ハ、和漢のさかいをまぎらかすこと、肝要肝要、ようじん

あるべき事也。」村田珠光「心の文」(古市播磨法師澄胤あて)

 また、利休茶会記を調べでみると、いわゆる名物は少なく、気に入った道具は

繰り返し何度も使用している。長次郎による国焼きものをプロデュースして新しい

茶の流れを形成した功績も見逃せない。

 証14=茶道具における名物の一種。大名物、名物に次ぐ位付けを表す。小堀

遠州の選定になるものが多い。松平不味編「古今名物類聚」に中興名物之部が

初見。井口海仙、永島福太郎監修「茶道辞典」(淡交社)より

 註15=「(イ)当時の生活道徳であった儒教の用語(天地人など)を使うことで、

いけばな理論なるものを組み立て、そこから花礼や生活作法といった瑣末的な

部分を強調し体制に奉仕した。

 (ロ)タブーを多く作ることで約束事を明確化し、茶花に法式を与えようとしてそ

の自由性を奪い、七格を三格にするなどして立て花の精神を骨抜きにした。

 (ハ)多くの流派が起こり、花伝書の出版による権威付けが行なわれ、花器や

道具の好みを指定するなど、差異化による経済的組織的競争が始まった。

 (ニ)高い花や見事な花器に眼が向けられ、生花会が華美になり、江戸後期に

は取り締りの対象になった。」

  伊藤ていじ「生花における天地人」大井ミノブ「生花の出現」波戸祥晃「様式へ

の抵抗」(「図説いけばな大系 いけばなの文化史2」(角川書店)より。

 註16=木村周篤著「生花秘伝野山の錦」享保15年(1730)

 証17=他に大久保雅充、桑原専渓、柳本重甫らが参加。

 一、懐古的感情の排斥

 二、型式的固定の排斥

 三、道義的観念の排斥=いけばなは芸術である

 四、伝統的花器の排斥=花器の形式は自由  

  

     戦乱を背景に生まれた即興芸能

 パフォーマンスという言葉が独特のニュアンスを持って一般的に使われ始めた

のは最近のことであるが、行為そのものは人間の歴史が始まって以来、絶えるこ

となく続けられてきた(註18)。

ここでは私なりのかなり自由な解釈で、日本のパフォーマンス史を考えてみたい。

 来訪者(神)の依代として樹木が立てられ、もてなしの儀式が行なわれた。

 これがパフォーマンスの原始形態であろう。

 多数の人間(共同体)が参加して祭という大きなエネルギーに変わっていき、そ

れが項点に達すると、漸次、ある意識のもとに集まった少数のグループに分離し

て人間同士(主客)の交流にいたる。

 かつて客間こそハレの間であり、パフォーマンス空間であったのかも知れない。

 中世ではそれが“会所″(註19)であり、野外においては“庭(広場)″(註20)で

あった。

 庶民の力に溢れたパフォーマンスはしだいに昇華され、方向付けられて、ルー

ルを持った各種の芸能へと形成されていく。

 能、狂言、和歌、連歌、茶の湯 いけばななどの根底には、人と人とが出会い、

その場を楽しく演出する相互的コミュニケーションの時間があった。

 その場限りの即興的な芸能は、応仁の大乱に代表される血なまぐさい戦乱を

背景に、人々の支持を受けた。

 混乱の時代は無常感を生むとともに、人間が集団化せずにいられない状況を

引き起こすからである。

 それらのパフォーマンスは一部のエリートたちや専門家による閉鎖的集団にな

ってしまう場合もあった。

 だが、「雑談(註21)」によって異なる芸能ジャンル間の交流があった事実も認

められ、全体の趨勢としては時代が開放的になっていったムードをうかがわせる

 そこにおける行為は一定の約束事にそった意外性の少ない虚構であったが、

彼らはグループの結束を固め、自分たちの信じている美意識に磨きをかけた。

 数多く開かれた連歌会、能会、茶会、立花会などの記録を調べると、当時の人

たちがつかの間の平安を本当に体中で楽しんでいた様子が浮かんでくる(註22)

 文字通り“会う”ことによって、その出会いの一瞬をより輝きに満ちた時空間に

作り変える試みは、一期一会であり、パフォーマンスの原点でもあった。

 註18=ローズリー・ゴールドバーグがその著書の中で「(イ)芸術家はその考え

を表現する数ある手段の一つとして、いつもライヴ・パフォーマンスにたよってき

た。

(ロ)これら出来事は歴史の中に位置づけることが困難であるために、一貫して

その展開を評価することが排除されてきた。」という二つの主要なポイントを指摘

しているように、人間の歴史の中には必ずパフォーマンスがあったと解釈しても

良いと思う。

 ローズリー・ゴールドバーグ著 中原佑介訳「パフォーマンス」(リプロポート)より

 註19=「人々の会合する所の意であり、遊興の場のことで(中略)特定の建物

を指すものではなかったが、義満の室町殿に至り、独立した建物としての会所が

出現し、書院造建築様式の一環として発展した。」

 村井康彦著「茶の文化史」(岩波新書)より

 証20=「庭は元来広い場所つまりは広場であり、狩猟、漁労、脱穀・調整のよう

な農作業、さらに、騎馬、合戦・夜討が行われ、とくに神事・仏事、それに獅子舞・

蹴鞠・相撲をはじめ、商業・変易など広義の芸能の営まれる舞台であったと解す

ることができよう」

 網野善彦「演者と観客ー生活の中の遊び」(日本民族大系−7小学館)より

 証21=雑談の記録としては世阿弥の女婿、金春禅竹の孫にあたる禅鳳が弟子

たちに教えた時に、その中の藤右衛門が書き留めた「禅鳳雑談」(永正年間1504

〜1521)がある。

 花、茶の湯、能などのジャンルの理論や美意識の交流があった。

 

 証22=応永八年(1401)吉備津宮法楽万句、永享五年(1433)北野社法楽万句

、文明十三年(1481)白河万句、天正二十年(1592)大山寺十万句連歌、応安七

年(1374)今熊野神事猿楽、貞和五年(1349)祇園社の僧侶による勧進田楽の興

行、明徳五年(1394)一乗院猿楽能など。

 茶の湯は「山上宗二記」「松屋会記」等の茶会記が残っている。

 

    自由な組み換えが支えた面白さ

 さて、いけばなのパフォーマンスの歴史は平安時代の花合、根合、前栽合(証

23)などの遊芸に始まった。

 南北朝時代に入ると花器の見事さを競った花御会(1380 康暦二年 二条良基

邸)が行なわれ、また足利義満の提唱によって開かれた七瓶花合(1399 応永六

年七月七日)は後に七夕法楽のメイン行事として定着していく。

 時代が下ると花を立てる専門家が登場し、しだいに花の造形に対する関心が

深まり、地下輩といわれる一般庶民も立て花を出品し始めた。

 この傾向は江戸初期まで続き、後水尾天皇が1629(寛永六)年に指揮した宮中

立花会は正月から九月まで実に三十三回も開かれたと言う。

 ここで注意したいのは、歴史の網の目からこぼれ落ちた庶民たちのいけばなパ

フォーマンスを想像力で補いつつ、みることの大切さである。

 つまりこれらパフォーマンスの核には「ばさら(註24)」という、武士や庶民たちに

よる異風の美意識があり、それが大きな源動力になっていったのではないだろう

かということだ。

 その好例が十四世紀に生きた守護大名佐々木道誉で、彼は華美、珍奇を好む

(過差)ことで、古代的公家権威に反抗し自らの力を誇示した。

「本堂ノ庭ニ十囲ノ花木四本アリ。

 此ノ下ニ一丈余リノ鋳石ノ花瓶ヲ鋳懸テ、一双ノ花ニ作り成シ、其ノ交二両囲ノ

香炉ヲ両ノ机ニ並べテ、一斤ノ名香ヲ一度二焚上タレバ、香風四方二散ジテ、人

皆浮香世界ノ中二在ルガ如シ。

 其ノ陰二幕ヲ引キ、曲ロクヲ立双ベテ、百味ノ珍膳ヲ調へ、百服ノ本非ヲ飲ミテ

、懸物山ノ如ク積ミ上ゲタリ。(註25)」           

 成り上り武士の奇矯な行動にすぎない、と言ってしまえばそれまでだが、大原

野の花の寺で行なわれた前代未聞の大パフォーマンスは、伝統的権威に対する

痛烈な批評精神を感じさせる。

 自然の大木をそのまま立て花に見たてたユニークさもさることながら、香や茶に

よって、居合わせた人々の匂いや味の感覚までも最大限に解放させたことの意

味は大きい。

 彼はさしずめ中世のトリックスターとでも言えようか。

 正統なものに対する異端からの告発によって文化は上昇力を獲得する。

 初期のいけばなパフォーマンスは新興階級の支持によって押し進められたが、

やがて芸道として整備されてくるにつれ、その逞しいエネルギーは程良く中和され

、新しい構造が芽ばえてくる。

 日本芸能の魅力はずぶの素人がその世界に飛び込んで、すぐにその各々の

段階に応じてそれなりに楽しめることにある。

 

 当時のいけばなが対象としていたものは、ひとつの作品(作品至上主義)という

よりも、その周辺にかかわる人々の生活をいかに生き生きとさせるかにあったの

ではないか。

 その意味でそれまでいけばなを支えてきたのは無名の庶民たちであった。

 観客と作家の間に自由な組み換えがきき、一種のアマチュア集団としての柔軟

な即興性を駆使するところに、パフォーマンスの面白さのひとつがあった。

 組み換えが固まり始めると専門家が生まれ、彼らは自己の創造エネルギーを

効率化するためにスタイル(型)を探し始める。

 もちろん型に対するアマチュアからの欲求も見逃してはならず、それらが互い

にかみ合って「道」(型の完成)が誕生する。

 註23=「花合…季節の花を持ち寄り、その優劣を競った。 根合…何の草花の

根かを当てるゲーム 前栽合…庭前に薄、萩、女郎花など多くの草花を植え、そ

の全体の風情を競った。」(桑田忠親著 「日本の芸道六種」 中公新書)より

 註24=「ばさらとはもともと仏教の用語でサンスクリットのVajraを語源とすると

いう。漢訳して金剛、つまりダイヤモンドが原義であった。金剛石がすべてを打ち

砕くところから、転じて楽舞の調子はずれをいい、さらに転じて遠慮用捨なく驕慢

・放埓にふるまうことの意となったと説明される。」守屋毅著「日本中世への視座」

(NHKブックス)より

 註25=「太平記」巻三十九

  

    「家族ゲーム」の中でのいけばな

 言語学者のノーヤム・チョムスキーはパフォーマンス(言語運用)に対してコンピ

テンス(言語能力)という対立概念を考えた(註26)。

 これを広く、能力あるいは知識という意味で使うならば、いけばな造形は瑣末な

コンピテンスの量がふえすぎ硬直化したことによって、パフォーマンスの力が弱め

られたと言っても良い。

 ただ、全くコンピテンスを持たないものには、いかなる状況にも素早く対応でき

るパフォーマンスは不可能となる。 

 パフォーマンスとコンピテンスの柔軟な関係が状況を活性化させることになるだ

ろう(註27)。

 型が道として完結されたという幻想(パフォーマンスを統轄するものとしてのコン

ピテンスという考え方)をふり払い、その到達点からさらに新たなパフォーマンス

を行ない、異なった形を探求することこそ芸術家には必要なのである。

 言いかえれば、到達点と次の到達点との間をパフォーマンスによってつなげ、

生きることで、コンピテンスに生命が与えれるのだと思う。 

 江戸中期には多く流派が起こり、秘伝と称して一部の限られた人間にのみ知識

(コンピテンス)の伝達を認めたため、パフォーマンス性は後退した。

 花伝書を写す(写本する)ことによって弟子は師匠の作品そのものをコピーする

という密室の作業に陥っていく。

 パフォーマンスの場である花会も、茶屋や酒店での小屋掛け形式となり、明治

に入ると百貨店でのいけばな展が主流となった(註28)。

 いけばなの鑑賞は開かれたものになった反面、作家は大衆という、漠然とした

不特定多数の観客を相手にすることになり、完結した一個の作品と顔のない観

客の間には大きなクレバスが横たわることになった。

 いけばなが芸術としてやっと一人歩きを始めた時、同時に、見るものと見られる

ものとが、はっきりと違う立場に立ったわけである。

 特に明治以後、婦女子の道徳教育の一環として、いけばなは各家庭に入り込

んでいき、いけばなの大衆化に拍車がかけられ、花を置いて生活に潤いを持た

せるという価値を再認識させた。

 その功績は非常に大きかった。

 なぜならこの力が現在のいけばな界の基盤になっていることは確かだからであ

る。

 しかし、それを充分認めたうえで、もうひとつの隠れたポイントにも目を向けたい

 それは社会とは離れた、家族のエゴイズムによって切り回される家庭のなかで

、いけばながひよわに育ったことである。

 つまりそこでは各々の思惑によって「家族ゲーム(註29)」が演じられ、いけばな

もそのゲーム性を一層強調するためのものにすぎなくなったのである。

言いかえれば、家族に慰安を与える自然らしさを持った花が好まれることになっ

た。

 いけばなのパフォーマーたちは、それぞれの家庭という小さい環境の中でー人

孤独なパフォーマンス(実はパフォーマンスとはほど遠いもの)を繰り返し、自己

満足に浸っていくことになる。

 註26=「言語能力Competence 話者、聴者が持っている自分の言語について

の知識。

 言語運用Performance 具体的な場面において言語を実際に使用すること。」

 N・チョムスキー著 安井稔訳「文法理論の諸相」(研究社)より

  註27=「このように運用の研究は本質的に能力についての理論の進展に依

存するのである。ところが、能力の理論は運用のモデルの内に組み込まれてい

るべきものであるから、行動の実際の組み立てに関する証拠が、その基底にあ

る能力に関する理論にとって決定的重要性を持つこともありうるのである。このよ

うに、行為の研究と能力の研究とは相互に支え合うという関係にある。」

 N・チョムスキー著 井上和子、神尾昭雄、西山佑司共訳『ことばと認識』(大修

館)より

 註28=明治45年(1912)7月 三越デパート大阪店 小原雲心第一回国風式小

原流盛花展を開催。

 証29=本間洋平原作、森田芳光監督による1983年度日本映画。受験生を持

つ四人家族の中に他者として家庭教師が入り込む。それぞれの自分勝手な思惑

によって物語は皮肉と諧謔で進む。その年の映画賞(キネマ旬報第1位)を独占

し話題をさらった。

 

  間接話法の世界に生きる知恵

 現代では私たちは抽象的空間に取り囲まれている。

 例えばセントラルヒーティングを考えてみよう。

 かつては木を燃やして火をおこし、火というものの実体を間近に見ながら、その

おかげで暖をとっているという認識を持った。

 現代では人間の眼の届かない場所に隠された装置が、暖を与えるよう操作さ

れている。

 暖かさ(結果)は感じるのだが、その実体(原因)は把握できない。

 こののっペらぼうな管理社会的抽象空間に斬り込み、異質と思われる世界に

関係性を与えていくものが、人間の身体を媒介としたいけばなのパフォーマンス

だ。

 刻々と変化する状況のダイナミズムに、観客や作家の身体のダイナミズムを乗

せて輝いた時間を創出すること。

 それは季節の花を使うとか、何日問も花を生かし続ける(註30)といったような

イージーな時間表現をとらない。

 まさにその一瞬一瞬に自分の全存在を燃焼しつくすこと、それだけである。

 従来のいけばなの整合性をひたすらパフォーマンスによってつき崩すのである

 言いかえれば単に美しいだけでない、社会に対してインパクトを持ちうるものを

創出するのである。

 そのことによって何か新しい、社会といけばなの関係、人間といけばなの関係

が生まれることが可能になるのではないだろうか。

 それが実現できれば、他のグレートアートと言われているものたちへのスリリン

グな挑戦状にもなり得るだろう。

 ただ、パフォーマンスには軽視できない問題点がある。

その楽しみを享受できるのはその場に居合わせたほんの少数の人間たちでしか

ないし、また、問題に対する掘り下げが浅ければ、その場限りの無責任で自慰的

なお遊びに終わってしまう可能性もある。

 現代にあっていけばなパフォーマンスをできるだけ開かれたものにするには、

写真、ビデオ、映画などを使うことになるが、結局それらはなし崩し的にパフォー

マンスの臨場感を失わせ、擬似イベントを伝達することになり、時間をも拡散させ

ることになるだろう。

 ビデオによる永劫回帰性とパフォーマンスによる一回性は永久に交わらない平

行線のようだ。

ただし、これまでのいけばな史がある程度形をなしているのは、絵師たちによる

いけばな図が残存しているためである。

 複製芸術時代においては、むしろ積極的にマスメディアやテクノロジーを活用し

ていくことで、新しいいけばなパフォーマンスの方法が切り開かれるのかもしれな

い(註31)。

 パフォーマンスの定義はその意味で、まだ流動的なのである。

 戦略は慎重に、しかも大胆にたてられねばならない。

 それが間接話法の社会に生きる私たちの知恵でもある。

 

 これまで述べてきたことをここで最終的にまとめてみよう。

 いけばなの構造の中の対立する要素である様式性と自然性をコントロール、あ

るいは活性化させるものとして、即興的な性格を持つパフォーマンスを手段として

使うことにすると、作家は自分の身体を通したパフォーマンスという振り子を大き

く振れば振るほど無限に両極(様式性・自然性)に近づくことになる。

  しかも、その振れるスピードが速ければ速いほど、次の瞬間にはもう違う点に

達し、ゆれ幅が大きければ大きいほどそこに創造されるいけばな空間は拡大す

る。

 このように作品は絶えずパフォーマンスのカの程度によって魅力あるものにも、

静止したつまらないものにもなりうる。

 いけばなの時空間は連続的な振り子運動によってその生命を与えられ、変幻

自在のイメージを拡大再生産する。

 他者との関係性によって自由にその生命の動きを変換していき、常に柔らかい

空間を作り出していく行為がいけばなの本質である。

 ただし、前述したように、パフォーマンスはあくまでも現代いけばな活性化のた

めの手段であって目的ではない。

 もちろんパフォーマンス自体に多大な価値を認める考え方も成り立つが、私に

は現時点においてそれほど楽観的に割り切って考えられない。

 パフォーマンスの言葉を繰り返すことで、何かとてつもない素晴しい世界が開け

てくるように思い込むのはまことに危険である。

 

 パフォーマンスはオールマイティーの切り札ではない。

 それは、いけばなが現在直面しているターニングポイントにおいて、少しでも状

況を揺り動かすための試みであると言える。

 私たちはまだ遠い道のほんの第一歩を踏み出したにすぎない。

 

 

 註30=利休当時の茶の湯は寿命の長い花は嫌われた。

 村田宗珠は「床に絵花これあるときは、花はときの賞翫たるによって、花を見、

後に絵を見るものなり」(「桟敷敷へ入次第之事』)と言っている。

 彼ら茶人たちは花の持つパフォーマンス性を良くわきまえていたと思う。

  註31=ローリー・アンダーソンの実験的なパフォーマンス、ナム・ジュン・パイ

クのビデオパフォーマンスなどモダンアートの分野では見事な成果をあげている

という。

            

 

                                                              (了)