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 失われた時を求めて      

  権威からの遁走

 夜から降り続けた雪が止み、雨となった。

 浅草のいけばな公募展(都立産業貿易センター台東館1987年12月6日・7日

)はそのためか、あるいはいつもそうなのか、日曜日であるにもかかわらず会場

は閑散としていた。

 諸流派が集まって開かれる花展は地方へ行くと県や市の音頭取りで、華やか

に行われている。

 だがそれも仲間内だけのあたりさわりのないおつき合いではないかという意見

もあるようだ。

 だから作家意識を強く打ち出したものとして、何ものにもとらわれない、ヤル気

のある人たちの公募展に私は密かに期待していた。

 それに、他流のいけばな作家たちの仕事に接する機会があまりに少ないことも

常日頃不満に思っていたのである。

 まず感じたことは静かな熱気とでも言ったものだろうか。

 床に投げ出されたもの、きちんと並べられたもの、会場の場の特性を全く無視

しているもの、あるいは利用しているもの、ヒモ、モミガラ、カンナ屑、石などを使

ったもの、オブジュ風のもの、ミニマルアート的なもの、それぞれがやりたいことを

ストレートに出している。

 この公募展の少し前に、ある伝統的な流派の花展を見た。

 同じような表情の作品が延々と続きかなり閉口したが、最も私の関心を引いた

のは家元の代華(と言う言葉があれば)であった。

 その流の幹部クラスの教授によっていけられた大作のわきに“家元の名で作品

制作することを許可する、云々”といったよぅな内容の許状が堂々とおいてある。

 私は見てはならぬものを見てしまったときのようにギョッとして立ち止まった。

 (観客の足を止めるなんてことは凄いことである)

 いや驚くことはない。

 私の認識が甘いのだろう。

 いけばなの世界の権威主義に対してこんなことで驚いているようでは“クロウト”

のいけばな人とは言えない。

 自己閉鎖的な集団の中に入っている人たちにとつては疑う余地のない“常識”

なのであろう。

 誰かが“王様はハダカだ”と叫ぶなんて、童話の世界だけのことだ。

 だから公募展の勝手気ままさを見ていると“権威”から出来るだけ遠くに遁走し

ようという姿勢がみられ、116点の作品からは等身大の人間たちのいけばなに

対する思いが聞こえてくる。

 確かにその中にはぶつぶつと言葉にならない音だけが空中に漂っているような

作品もあったが、かえってそこに恐いもの知らずの新鮮な反抗を見て取ることも

可能だ。

 多くを知ってしまった者の口は重い。ただその反抗が、しぶとく生き抜く抵抗の

力に結集していくには大分時間がかかりそうだ。

 それにはしっかりした問題意識の提示と、それを裏付ける新しいいけばな思想

が確立されなければならない。

 それにもう一つ、マイナーに徹するのは見識ではあるが、やはりこれだけの若

い芽をもう一回り大きなコミューンに育てるべく宣伝、組織化することも必要だろ

う。(私はこの花展の案内をある流派の小さいカコミ記事で知ったのである)

 そうしないといけばな界全体にカツを入れることはおろか、才能ある人たちがた

だ単に自己満足的な作品をつくり続けるだけのことにもなりかねない。

 違う問題意識を持った作品どうしが正面からぶつかり合い、波紋を引き起こす

ことによって、ヨコの繋がりも強化されお互いの励みにもなっていくのではないだ

ろうか。

 

 

   廃棄されたもの

 

 今回のいけばな公募展の傾向を分析してみると、前述したように床に置かれた

ものが圧倒的に多く、しっかりと立ち上がっていくような立体構成の作品が少なく

思われた。

 技術が未熟なのか、技術(形を造ること)の否定なのか。

 立ち上がった作品でも両側から鉄骨で支えられていたりする。

 それ以上に特徴的だったのは、廃棄されたもの、枯れたもの、朽ちかけたもの

の素材の利用が多かったことである。

 美術評論家の、たにあらたも“常套化した朽ち手段”として次のような感想をも

らしている。

 「今年の“いけばな公募展”の出品作を見ていて感じたことは“やけに朽ち花が

多いな”ということだった。

 いけばなが、その本来のモチーフである花や草木を離れて(もしくは素材を拡

大解釈して)多種多様な素材に挑戦する傾向は、ここ数年とみに強まっているが

今回展ほどそのことが如実に感じられた機会もない。

 朽ち花とはいっても花そのものがモチーフになっている例は少なく、むしろ花を

離れた使用素材の拡大において、ここでいう“朽ち”の現象がよく見られるのだが

、これほど類例が揃ってしまうと、なにやらいけばなの逆転した世界を見せられて

いるようで、かえって気持ちが悪い」(“いけ花龍生”2月号)

 もう一つのポイントはものをそのまま使用しているか、手を加えるのを極度に抑

制しているような作品、日本のモノ派的あるいはミニマルアート風の物質感を強

調した作品が目に付いたことである。

 素材としての廃物、表現としてのドキュメンタリー手法。

 これらの方法論はいけばなというフィールドに限られたものとしてではなく、最近

、さまざまな分野に顕著にみられる傾向である。

 同じ12月に私が出合った違う世界の作品について少し触れてみたい。

 その1、映画“ゆきゆきて、神軍”。(1987年、原一男監督)

 現在殺人未遂犯として服役中の実在の人物、奥崎謙三(67才)の81年から8

2年にかけての行動をカメラが追う。

 第二次大戦後24日たった9月8日、南方の島で起きた不可解な日本兵士の死

(厚生省へは戦病死として届けられていた)の真相を探ろうと奥崎は、国家や法

律を否定しつつ自らを神軍平等兵と名乗って、当時の関係者を求め各地を歩き

回る。

 口を重く閉ざして語りたがらない彼らを、奥崎はなだめたりすかしたり、時に殴

る蹴るの暴力に訴えてまでも追求していく。

 兵士は部隊内で処刑されたことが判明し、その背景には人肉食という問題が横

たわっていた。

 彼はその直接の責任者である元上官を殺そうとして、誤ってその息子を撃って

しまうことになる。

 戦争がもたらしたもの、極限状況によって試された人間たちの悲劇が主調音と

なって、破天荒な人物の行動と思想は良きにつけ悪しきにつけ、見るものをぐい

ぐい引きずり込む。

 日本の国家が廃棄してしまいたい、眼をつぶりたいと思っている暗黒の部分を

白日のもとに剥ぎ取っていく作業、つまり廃材、廃棄物だからこそ、それを腐臭と

ともに見るものたちの前に提出するということが大きな意味をもってくる。

 それらの厳然たる過去の事実は高度成長を続け、いま足踏みを余儀無くされ

ている日本がもう一度試される忌まわしい記憶の復活である。

 もしアメリカであったなら、その忌まわしい記憶はヴェトナムであるのだろう。

 “プラトーン”(1986年、オリバーストーン監督)や、“地獄の黙示録”(1979年

、フランシス・フォード・コッポラ監督)がその役割を果たしていると言えよう。

 “ラストエンペラー”(1987年、ベルナルド・ベルトリッチ監督)の中の、日本人

による南京虐殺のシーンを一方的に日本の配給会社がカットして公開したことが

問題になったが、『この映画は実は日本人が作るべきものであった』という佐藤

忠男の言葉は的を射ていると思う。

 “ゆきゆきて…”はまた、その徹底したドキュメンタリズムによっても“1000年刻

みの日時計”(1987年小川紳介監督)と共に、昨年の日本の劇映画の顔色をな

からしめた。

 語りたがらない人間のその場を取り繕う嘘や演技、開き直りなどを執拗に食い

下がって撮り続けるカメラ。

 あぶり絵のように次第にほの見えてくる真実。

 カメラは正直である。               

 

  宙吊りにされた時間 

 その2“1987絶対現場”(12月4日〜19日 総和都市開発FRUX外苑建築現

場 鈴木了二、田窪恭二、安斎重男企画)。

 靴を脱いで厚さ1・2センチの強化ガラスの上にたった時、目まいのようなもの

を感じた。

足もとには冬の空がポッカリと穴を開けている。

大丈夫だと頭のなかでは分かってはいるのだが、足がなかなか前へ出ていかな

い。

 剥き出しの柱や梁を見上げる。

 それらは錆び付いた釘が打たれたままだったり、シミや鋭い傷が付いていたり

する。

 神宮球場近くにあるこのちっぽけな住宅解体現場は、屋根を取り去り、壁を壊

した時点で凍結された。

 あと少しで跡形もなく取り壊されてしまうこの廃屋は、奇妙な存在感とイメージの

広がりをもたらす。

 それはこれまで人間が生活していた、その過去の痕跡が、柱に、土に、石に残

されていることによるのか。

 あの辺りが台所でここが風呂場、ああ、あそこの脇の部分はきっと廊下に違い

ない。

それにしても四畳半の空間なんてこんなものなんだな。

六畳だってあんなに小さい。

 私はもらったパンフレットに描いてある以前の住宅の間取りとにらめっこしなが

ら、柱と柱の間に視線をさまよわせた。

 ここで生まれ、育ち、死んで行った人間たち、家族そろって晩御飯を食べたであ

ろう茶の間。

 そんな空間はいま消え去り、そうかといって完全には破壊されていない、宙吊り

の切なさがヒシヒシとつたわってくる。

 美術展というわけでもなく、ただの工事現場ということでもない、ユニークな一つ

の試みが私の前に広がっていた。

 物を造るのではなく物を解体する、それも写真を撮ってそのプロセスを追ってい

く仕事、そしてある段階でストップをかけて時間をただ宙吊りにしただけで、そう、

ほんのちょっとの“時間”を調整しただけで、何とこれらは重い問いかけを発してく

るのだろう。

 人間の生活の記録がいままさに灰塵に帰すというセンチメンタリズムもさること

ながら、質素な木造住宅にたくして語られる東京という街の寓話を読み取ることも

できるだろう。

 私は子供の頃読んだ“ちいさいおうち”(THE LITTLE HOUSE by Virginia Lee

Buron 1954年第1刷発行)という絵本を思い出した。

 畑に囲まれた田舎の一軒家だった小さなお家とその家族は、四季の移り変わ

りを楽しみながら毎日幸せに暮していたのだが、やがて家の前に大きな道ができ

、馬車が走るようになった。

 そして道は舗装され、警笛を鳴らして車が通り始める。

 両側にはコンクリートの家が建ち、どんどん都市化の波は進行する。

 ついに小さなお家は電車と車の渋滞と、高層ビルと、群衆のなかで窒息寸前に

まで追いやられてしまう。

 結局小さなお家は、そっくりそのまま大きな車に引かれて元の場所のようなの

んびりした田舎に落ち着くことになる。

 子供たちはそれで一応納得するかもしれないが、実のところこの絵本には終わ

りがない。

 また最初のページに戻らなければならなくなるのを誰が否定できようか。

 

  位置の喪失 

 赤瀬川原平らはすでに不用となってしまった昇って下りるだけの階段や、入るこ

とのできない門などをスナップして、それらの持つ不思議な魅力を引き出していく

 また、“夢の島”のなかで廃品に取り囲まれた主人公は次のような感慨を述べ

る。

 「ゴミはほとんどが白いビニール袋に入れてあって、それが一面に水面に浮か

んでいる。

 ビニールの袋がこんなに鮮やかに日ざしにきらめくとは、昭三は想像したことも

なかった。

 まるで銀箔かアルミの粉末でもまぶしたように、汚れているはずのビニール袋

が直射日光に乱反射して輝きわたっていた。

 その間にかなりのブルーの、わずかに黒のビニール袋もまじって、こんなに一

面華やかにきらめきわたる光景を見たことがないと思う。

 ゴミ投棄場がこんなにも美しいとはいったいどういうことなのか、昭三は咄嵯に

理解できない。

 (中略)

 そんな壊れ捨てられた屑物のひとつひとつが強烈な存在感を、濃密な生活の

においを帯びて見えた。

 デパートや店屋の棚に並んでいたら何も感ずることはないにちがいない平凡な

ものたちのひとつひとつが、掘り出されたばかりの貴重な鉱石のように輝いてい

る、手ごたえをもっている、それぞれの物語を語っているのだった。

 (中略)

 むせ返るような思いがけない気分だった。

壊れることで、片割れだけになることで、棄てられることで、物が生き返っていた。

一面見渡す限りの廃物の散乱はエントロピーの法則の勝利のしるしのはずだ。

にもかかわらず廃物のひとつひとつが無でも衰退でもない逆の濃く強烈な何もの

かをつくり出していた。

都市化、高層化が進むにつれて人影が次第に街路から消えてからっぽになり、

空気が希薄になってゆく東京の隠された内臓が、思いきり光の下にぶちまけられ

ているのを見る思いだった」

                          

            (“夢の島”日野啓三)

 

 家の解体とは家族の解体であり、大都会に放り出された人々は自らの位置(ポ

ジショシ)を見失っていく。

 立ち退きを迫られる建物とは、立ち退きを迫られる私たち、疎外されていく私た

ち自身であるのではないだろうか。

 実際問題としても土地高騰によって莫大な固定資産税を払い切れずに他の土

地へ移らざるをえない人たちが出始めている。

 それらの状況の彼方にはいまのところ一筋の光明も見えてきていない。

 未来が見えてこないとき、人は過去を透視することによって少しでも未来を占お

うとする。

 だが錯綜する記憶の堆積のなかに埋もれている真実は容易に探し出すことは

できない。

 降り積もる枯れ葉を両手でかきはらい続けていくうちに、いつしか自分も枯れ葉

の1枚になってしまうような錯覚に襲われる。

 そして実はその一枚一枚の枯れ葉こそ、大きな意味をもつていたのだというこ

とに気付く。

 この廃屋は廃屋であることによって、様々な暗示を私たちに投げかけてくる。

 団塊の世代の記憶のなかから村上春樹はビートルズの“ノルウェイの森”を美

しく演奏し、位置を見失った現代人の孤独を描いた。

 「『あなた、今どこにいるの?』と彼女は静かな声で言った。

 僕は今どこにいるのだ?

 僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるりと見まわして

みた。

 僕は今どこにいるのだ? 

 でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。

 見当もつかなかつた。

 いったいここはどこなんだ?

 僕の目にうつるのはいずこへともなく歩きすぎていく無数の人々の姿だけだった。

 僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼び続けていた」

         

          (“ノルウェイの森”村上春樹)

              

  土の枢

 映画、現代美術、文学、いけばななど色々な分野にわたって目を通してみてい

くと、少しのズレを伴ってはいるものの、時代の背負っている状況とそれに対する

方法論に共通のものが見えてきはしないだろうか。

 話をいけばなに集中していこう。

 廃棄されたものをすべて飲み込んでしまう土、大地は素晴らしい。

 たにあらたはいけばな公募展での朽ち現象のなかでも突出している作家として

谷口雅邦と仮屋崎省吾の二人を挙げている。

 ここでは仮屋崎省吾の作品を追って、これまで見てきた時代の抱えている様々

な問題を通して、彼がどのようなコンセプトでどう具体的にいけばな化しているか

を考えてみたい。

 彼は一昨年、土塊のなかに清々しい水をはりつめた大自然の“つくばい”を連

想させる作品で第六十八回東京草月展草月出版新人賞を受賞した。

 とりわけ土のなかからはえてきた小さなヒゲのような木の根が印象的であった。

 これを皮切りにして彼はつづけざまに個展を開いていく。

 男子専科展(1987年2月20日〜23日 草月ギャラリー)では直方体に切り取

った土塊四個をヨコに等間隔に並べた作品を出品した。

 それはすぐさま私に“枢(ひつぎ)”を想像させた。

 “われ裸にて母の胎を出でたり、また裸にてかしこに帰らん”というヨブ記の言葉

が脳裏を横切り私を深い沈黙に誘った。

 初の個展(同4月20日〜26日 神田・田村画廊)は直方体の土塊を今度はタ

テにして小さい画廊いっぱいに並べた。

 父親の死によって枢を想像させるような作品になったと彼自身語っているように

、常に彼の作品のかもしだす雰囲気は暗く重い。

 二回目の個展(8月3日〜8日 銀座・村松画廊)は男子専科展と同じ要領で土

塊の数が4個から16個になった。

 これらを写真で見ているうちに私は十数年前にみた“素晴らしき戦争”(1969

年 リチャード・アテンボロー監督) のラストシーンを思い浮かべた。

 戦争で死んで行った若い兵士たちが一人、また一人と小高い丘にやってきては

横になる。

 と、それがそのままこんもりと盛り上がった白い墓になってしまう。

 あとからあとから若者たちがやってきては墓になる。

 やがてカメラは引いてロングショットとなり、丘一面に続く墓石群をとらえる。

 この十六個の枢も限り無く広がって百にも千にも想像を巡らすことができる。

 大地から切り離してきたこと、画廊のなかの土塊だからこそ、それらは帰るべき

大地の静けさを希求して止まない。

 次の個展(12月九日〜21日 早稲田・NWハウス)ではついに大きな土塊は

私を飲み込んでしまうほどに立ち上がってきた。

 横倒しにされた土のブロックは天井にまで届くほど積み上げられた。

 打ち放しのコンクリートの空間と響きあって、向こう側に行ったらもう二度と帰っ

てこられないような息苦しさを与える。

 惜しまれるのは4度目の個展だ。(1988年2月22日〜28日 神田・真木画廊)

 土を床中央にうすく敷き、廃材を取り去ったあとの空虚な空間をその中に意識

的に造っている。

 また、四方の壁には土だらけの柱や板がタテに直線的に並べ掛けてある。

 新しい展開を目指したのであるが、廃材に塗られている土の色相がすべて同じ

で単調、ところどころ伸びた木の根がいかにもわざとらしくなってしまった。

 柱や板も切り口がスマートすぎて、もう少し剥ぎとってきたような荒々しさとか、

反対に、自然にぼろぼろになってしまったような感じも欲しいと思った。

 デザイン的にまとまりをつけた分だけ存在感としてはいままでのものに較べて

弱い。

 中央の盛り土はもっと深くして厚みをつけたら良かったのではないだろうか。

 総じていままでの緊張感が希薄なのである。

 

 死と対峙する時間 

 ところで彼の一連の作品を追いかけてみると、最初は土そのものに作者の興

味が集中していた感があるが、公募展をきっかけにして土とともに、その中に“埋

められていたもの”に焦点が絞られてきたような気がする。

 特に公募展の枕木みたいな黒い土をつけた木は迫真的で、時間の積層のなか

から自らの貴重な廃棄物(失われた時)を掘り出してきたような不思議な力を秘

めていた。

 あまり手業を感じさせない(実は手業は充分に発揮されているのであるが)ある

がままの物を提出するドキュメンタリー的な手法、廃材へのクローズアップが目

指していたものは時間である。

 これまでのいけばなの時間とは“いけばなは瞬間的なものである”と言われてき

たように、いけ終わったときがいけばなの最高に輝かしい時間であった。

 死に向かいつつある切り花は刻一刻とその表情を醜くしていく。

 できるだけ早いうちに観客はその消え去りゆく美を味わおうとする。

 いけばなのパフォーマンス性はこうした素材の持つ時間の宿命が背景として出

てきたものだ。

 だが仮屋崎の時間は、ほおむり去られてしまったものが地中の奥深くで過ごす

、そんな死の時間である。

 それは瞬間ではなく、永遠に近い尺度によって測られるような世界だ。

 中川幸夫は一万本以上の赤いカーネーションを使って死臭を漂わせた作品を

作った。

 それは仮屋崎の時間よりも少し先行していて、植物が死に絶えるときの、凄ま

じい死体のように生々しい。

 非常に生真面目な死との対話を紡ぐ中川の作品はしかし、ときどき目をそむけ

たくなったり、鼻をつまみたくなったりするのも確かである。

 仮屋崎の息苦しさとは別の、痛覚がまだ残っているような肉体的な死そのもの

であるような気がする。

 あるいは同じ死を扱っても大坪光泉の手にかかるとあっけらかんとしたユーモ

アと譜諺の世界に至る。

 龍生派の“ゴミ5分の1”が発表されたのは1971年、いけばなでの“廃棄”とい

う問題に目を向けた先行的な作品である。

 アメリカやヨーロッパの現代美術のシーンではすでに1950年代以降、工業化

社会がもたらした廃棄物の山に目を付けて作品化する作家(ラウシェンバーグ、

アルマン、セザールらのジャンクアート)が出始めている。

 また日本でも読売アンデパンダン展において、あらゆる素材の出現がそのつど

大きな話題を呼んだ。

 そうした美術史的背景を考え合わせると、この作品は弱いかもしれないが、逆

にいけばな作家だからこそ出てきたエコロジー的問題意識だとも言える。

 そのほかにも“コンクリート詰めの野菜”(1971)“植物切り裂き機”(1973)“

棄てることについて”(1973)など、あるいは植物をロープで縛り付けて天井から

吊す“とらわれの木”(1979)などというようなSM的なドギモを抜くような作品を

過去に幾つも発表している。

 圧巻は“植物人間”(1978)である。

 作者自身が顔に包帯をまき、タバコをふかしながら世界植物図鑑に見入ってい

る(“ニコチン中毒”ではなく“植物中毒”のように)。

 包帯からシャツから、赤いトウゴマが血管のようにはみ出し、飛び出てテーブル

の上にまで散乱している。

 一歩間違えば差別的な思想問題にまで発展しかねないものの、しかしそこに流

れている痛烈な批評精神を見逃すことはできない。

 植物を切り刻み続けるいけばなという行為をミもフタもなく、私たちの前にぶつ

けてくる。

 これは笑いではあっても暗闇のなかの渇いた笑いである。

 中川幸夫も大坪光泉も同じ時間層にいると思うのだが、植物を見据える眼が陰

と陽にはっきりと分かれるところが作者の個性とあいまって面白い。

  

    誕生

  仮屋崎の作品が土から、その中に埋まっていたものへと変化していき、常に小

さな木の根を付けているということは象徴的である。

  木の根は深い地底のなかからの生命の蘇りを表す。

 中川→大坪→仮屋崎と流れていた時間が再び地上に出てくる時間、その時間

を強調して作品に取り込んでいるのが崔在銀である。

 輝く生を項点とするこれまでの点的ないけばな(生→死)ではなく、生命の誕生

、生成へと時間をズレこませた彼女の時間軸は次の言葉からも明らかである。

 「私の個展のコンセプトは、生きている植物素材への愛着ということから出発し

ています。いけばなというのは自然の素材を使った一過性のものですから、終わ

ってしまえば素材は当然捨ててしまいます。私はその捨てるという行為、あるいは

素材を切るという行為がとてもいやでした。そして素材を切らない、生かす、という

ことから“土”という素材がでてきたのです」

 また、当時フランスで制作が予定されていた作品について彼女はこうも語って

いる。

 「野外に建てた鉄の建物のなかに木を移植して、その木が時間とともに育ち、

建物をどんどん壊していくといったようなイメージのものです。何もない空間のな

かから、自然の光と木が行動を起こし、最初の闘いを始めるわけです。それは時

間と空間と生とのジョイントが作り出す新しい空間であるといってもいいでしょう」

 (1987版“展覧会のいけばな”より) ※注

 崔在銀の代表的な作品は草月プラザに一面の土を盛り上げ、キヌイト草の種

を蒔いたものである。

 黒々としていた土のなかから日がたつにつれてチラホラ緑が見え始め、会期最

終日ともなるとプラザは新鮮な緑色の世界に変貌し、その中で白い石が生き生き

と輝いていた。

 草月出版新人賞受賞作(1983)スパイラルの木(1987・3)銀座小松ストアの

ウインドウディスプレイ(1987・11)などいずれをとってみても崔在銀のヴィジョン

には、常に「育てる」という発想、母性的な感覚が横溢していて、その暖かい手触

りがポピュラリティーともつながってあっという間にスターの座に駈けのぼった。

 彼女の作品はいつでも明解でシンプル。

 中川幸夫の難解性や大坪光泉のブラックユーモアがもう一つ大衆の支持をつ

かみ得ていないことと考え合わせると興味ぶかい(それが良いとか悪いとかの問

題ではないが)。

 やや強引に過ぎるかとも思うが、生の始まりへの母性的な接近の仕方が崔在

銀だとすると、もっと荒々しい力によってある時間を囲いこんでいるのが日向洋

一だ。

 土俗的でアニミズムの匂いを漂わせた草月展の作品、原始人の家をイメージさ

せる公募展の作品など、焼けた自然木と石で力強く立体を構成している。

 部分部分焼けた木はちょうど人類が初めて火を発見したときの驚きが焼き付け

られているかのようだ。

 彼の作品からは、最近ひ弱になりつつあるいけばなにはみられない、かなりな

エネルギーが伝わってくるが、それはいつか私たちの祖先が見たであろう太古の

時間のなかの始まりなのであって、未来を覗かせるものではない。

 これまでの論述を時間の観点からもう一度整理してみよう。

 現在も大半を占めるいけばなの時間は瞬間性であり、輝く生をできるだけ技術

的に保持し、朽ちや枯れを少しでも遅くしようとした。

 それに対して中川はきれいきれいのいけばなごっこで満ち足りていた人々に、

真っ向から植物の死の貌をぶつけてきた。

 オリバー・ストーンがアメリカのヤッピーたちに“プラトーン”や“サルパドル”をぶつけたように。

 一方、大坪はひとひねりふたひねりもして中川と同じ時間を人間の側から自嘲

的に問題提起した。

 彼の作品が常に人間臭いのは作品集“PLANT AND MAN”の題にもあるとおり

だ(つまり人間と植物の“関係”を作品化している)。

 仮屋崎は二人のあとを引き継いで深く土中に潜り込み、冒険的な地底旅行を

試み、そのスーベニールの数々を個展で見せてくれた。

 そして彼の作品のなかにも小さな命が宿され、それを育てて豊かな時間に耕し

たのが崔であり、始まりの時間を求めて大過去にまでスリップし、その地点から

いけばなの現在を批評したのが日向であった(つけ加えていうならば昔の茶人た

ちは、植物の誕生時のエネルギーに早くから注目していた。 茶事にいけられる

椿は必ずつぼみを用いることが口伝されている)。

 いけばなの最前線での廃材や廃物をできるだけ手業を見せないようにして並べ

て置く(大地へと収束していく水平指向)という傾向は、安土桃山時代の林立する

立花の群れ、つまり花を“立てる”という垂直指向と見事に相反している。

 空に向かって一本の木が伸びていく崔のスパイラルの“木”、地の核心に向け

て掘り続けていく仮屋崎の一連の仕事のなかで、いけばなの現在が微妙に均衡

を保っているというべきなのだろうか。

 

    竹が消えていく 

 勅使河原宏個展(1987年9月 草月プラザ 日本橋高島屋)は予想どおり各

界からの熱烈な賛辞をもって迎えられた。

 ここで同じような感想を書くという野暮なことは差し控えたいが、個展から五カ月

たった二月のある日、草月会館で体験したことだけは書いておきたい。

 ビルに入ったとき、プラザにはまだ竹の作品が展示してあった。

 軽い一瞥を与えて私はそのまま五階の教室へ向かった。

 授業が終わるともう一度じっくりと作品を見ておきたいと思い、エレベーターを二

階で降り、プラザ全体が見渡せる談話室のほうへ足を向けた。

 4時45分。

 日脚が伸びたとは言え、街には夕闇が少しずつ訪れていた。

 私の眼前には荒涼たる風景が開けた。

 鬼気迫るとでも形容したらいいのだろうか。

 竹は生白く変質しており、個展開催時の爽やかな緑は跡形もなくどこかへ消え

去っていた。

 ここ数カ月多忙で会館にこられなかった私にとって、全く違う作品に出会ったよ

うなショックを覚えた。

 会館前の青山通りを走り去り、走り来る車の音が、ちょうど吹き荒ぶ野分きの

ように聞こえてくる。

 その音に呼応するかのように竹は唸り、ざわめいて、くねり、動いているのでは

ないかと思われてくる。

 弱まりつつある光のなかで砂漠のような果てしない景に、私は誘われ、プラザ

に迷い入った(その時の私には迷い入るという感覚がピッタリであった)。

 私の行く手を阻む一本の竹を軽くこすってみると、その表皮はサラサラと白い

粉となって舞い落ちた。

 竹が死んで行く。

 徐々に徐々に白さを増しつつ、いずれ竹は白い粉となって消えて行くのだろうか

 と、突然、プラザにライトが灯された。

 私は幻覚から眼を覚されたようにもとの自分の世界に戻った。

 竹はライトに照らされ少し赤みを帯び、いままでの幽遠な世界は急速に遠退き

、ひとなつこい表情に変わった。

 ほんのりと暖かい沈黙、流れる水の音、滴り落ちる水、楽しく弾むような竹の音

楽。

 ここに迷い入る人々は無口になるが、お互いが暗黙のうちに理解し合えている

ようなやすらぎを分かち合う。

 私は期せずして竹の二つの表情を見ることができた。

 そして、なぜか私は寂蓼たる夕闇の中の竹にひかれた。

 竹のプラザが長い間放置されていたことの疑問は、竹の白い粉のようにサラサ

ラと溶けていった。

 

                     (了)                   

 

   (文章中の敬称は略させていただきました)

 (※注)崔在銀のこのプロジェクトは、同じコンセプトのまま、ソウルの国立現代

美術館の庭に、オリンピックに合わせて設置される。