勅使河原蒼風にみる草月流の歩み−1
今回のテーマは草月流の歴史です。
ベテランの草指連会員の方々にとってはもう周知のことかと思われますが、新し
い会員たちのためにもここでもう一度草月流の歩みを振り返り、今後のいけばな
活動に少しでも生かせていけたらと思ったわけです。
草月流の歴史とはとりもなおさず、勅使河原蒼風の歴史でもあり、また広い意味
では20世紀いけばな界の歴史でもあります。
蒼風氏は1900年に誕生していますから、西暦の下2桁の数字が大体数えでの
年齢とみてよいので、年譜もわかりやすいのではないでしょうか。
(以下、蒼風先生の敬称は略させていただきます。)
彼の成し遂げた仕事は、いけばな500年の歴史の流れの中で見ても実に突出
したものとなっており、20世紀の巨匠を再考するにはこの短い時間の中ではとて
も困難に思えます。
できるだけわかりやすく蒼風の歩みをコンパクトに凝縮してお話するのが私の仕
事ですが、言い尽くせない点などはこのレクチャーの後、宏家元とトークしていくこ
とによって、事の本質を明確にしていくつもりです。
蒼風の年譜を私なりの考えで四つの時間的スパンで考えてみたいと思います。
まず第1期は1900年の誕生から1926年の父、和風との訣別までの時期です。
日本いけばな学会という組織の指導者であった勅使河原和風の下で、アプリオ
リにいけばなを生涯の仕事として定められた蒼風が花の修行をした時代でありま
す。
5歳の頃から父よりいけばなの手ほどきを受け、15歳の頃には小先生と呼ばれ
るほどの人気を弟子たちから博していました。
父はその当時としてはかなり進取の教え方をしていたのですが、それでも蒼風
にとっては自分の個性を少しでも出して変わった花を生けると頭から怒られてしま
うという状況が続き、とうとうそれに反発した蒼風は昭和元年に家を出てしまうこと
になるのです。
与えられたものを守るのではなく、彼は彼の花を模索していくことになるのです。
この事件にまず草月流の精神がいみじくも象徴的に表れています。
さて次に第2期。
彼は翌年草月流を名乗るわけですが、このときから終戦になる1945年夏まで
とします。
蒼風は裸一貫で家を飛び出したものの、なかなか弟子が入門せずかなり苦労し
ました。
花よりも看板を彫ったり、団扇に絵を描いたりして生活の資にしたことの方が多
かったようです。
ここで見逃せないのが昭和30年代より蒼風が古事記連作として樹の彫刻に集
中しだしたことの下地がここにあるわけなのです。
一見して停滞していたかに見える1年ですが、彼としては実に有意義な時間を自
分なりに工夫してやりくりしていたのでした。
ここにも生活全般にわたるアーティストの目と仕事が大事であるという草月流の
ものの考え方があるように思えます。
さてこの時期とても興味を引くエピソードがあります。
蒼風がある料亭街を歩いていると、花屋がリヤカーに花をいっぱい積んでとある
料亭の裏口に車を止めました。
しばらくすると器を抱えた女中さんが出てきて花屋に渡し、花屋は荷台の片隅を
テーブルがわりにして花をささっと生け、それをまた女中さんに持って行かせまし
た。
蒼風はそれを見て、ああ、これだ。私もひとつこの方法でやってみようと思い、1
軒1軒料亭を廻って花を生けさせてくれないかと持ちかけたのです。
最初は思うに任せなかったのですが、それでも1軒、また1軒と生けさせてくれる
お店が出てきました。
あのときほど嬉しかったことはないと、後で彼はそのときのことを述懐しています
。
生け賃は支払われなくとも、立派な花器に立派な掛け軸がかかっている立派な
床の間に、花を生けられる幸せを全身で味わったのですから。
これは今で言う草月流のフラワーク(社会に出て行き、いろいろな空間に花を生
け、制作料をもらうという経済的行為)の先駆でもあります。
いけばなが家庭生活の空間から外に出ていき、社会と交わったことの意味は評
価されていいと思います。
勅使河原蒼風にみる草月流の歩み−2
でもそんな苦労した時間は実にわずか1年ほどのことでした。
幸運の星の下に生まれた蒼風は彼の運命をどんどんたくましく切り開いていくの
です。
創流の次の年には銀座・千疋屋のフルーツパーラーで流展を開き、ここでJOA
K(NHKの前身)の大沢豊子氏に認められ、一気にラジオ放送の仕事が舞い込ん
できたのです。
そのラジオ放送が好評のため翌年には7回連続の講座となり、一躍蒼風と草月
流の名は全国に伝播しました。
またこの同じ時期に主婦の友社の石川武美氏にも認められ、雑誌の口絵を飾
るという華々しいデビューも成し遂げたのです。
つまりラジオと雑誌というその当時のマスコミの最先端とかかわることによって蒼
風は飛躍的に流の発展を図ることができたのです。
しかも大正モダンといわれる大正から昭和初期という時代にあって、世の中には
非常に自由なのびのびとした空気が流れていました。
蒼風の新しい花はその時代の息吹とピッタリと合致していました。
いけばなはその時代その時代の要請に応えて形を変えていかねばならないとす
る草月流のポリシーがここでは実際問題としてよく密着していたと思わざるを得な
いのであります。
蒼風の舵取りによって動き出した草月は次々と新しい試みをしていきます。
如水会館での流展では当時無料であった入場料をかなりな有料として、いけば
なを音楽会や絵画展と同じように鑑賞する態度を見るほうにも要求しました。
それは逆に考えればお金をとってもそれに値するような作品を作れとも言う、蒼
風の弟子たちに対するシビアな設定でもあったのです。
いけばな作家であるというプライドを有料化というシステムを設けることによって
、彼なりにさまざまな人たちに対して、いけばなの芸術性を訴えたのだと思うので
す。
昭和8年には如水会館展のほか、主婦の友社から蒼風の初めての本「新しい生
花の上達法」が発行されました。
雑誌ではなく単行本として草月流のいけばなが本屋の書棚の一隅を占めたとい
うことは草月流自体が社会的に認められたということにもなるでしょう。
それに先立つ昭和7年「婦人の友」に連載された…時代の心を取り入れた新し
い活花講座…での記者の質問に答えている蒼風の言葉が、草月流という組織が
どうして出てきたのか、いけばなの本質とは何かということを素直に全身で応えて
いると思われますのでそれを引用してみたいと思います。
記者
あなたの草月流は何等古い型にとらわれない花の挿し方、極めて自由な近代的
な芸術意識によるものなのですね。
蒼風
そうです。
私は自分の創始したものを草月流などと流儀呼ばわりすることさえ恥じています。
実際私の花には一見してこれは草月流とわかるような型などありはしないので
す。
ただ態度を鮮明ならしむるために、草月流などといってみなくてはならないので
す。
もし少しでも何流というような意識が自分に動いたならば、それは私自身の花に
対する自由を自殺させます。
その瞬間から花が私に背を見せてしまいます。
花は生き物です。
少しでもそこに人間の固定した意志を加えるならば、花はその真を失います。
樹にある間は目にこそ見えないけれど花は絶えず伸びて、あたりの事情に合わ
せて姿を調えています。
それが折られてしまえば花自身どうすることもできないのですから、人がそれを
助ける。
これはその人の個性感情を花に与えることになりますね。
即ち花と人が合致して一つの美を創作するのです。
ですから花により、器により、人により、またそのときの感情により、創作される
花の姿は千種万態です。
決して同じものが二つ出来はしないのです。
それなればこそ創作なのです。芸術なのです。
さまざまな活動によって蒼風は当時関東の横綱的存在であった安達潮花の安
達式いけばなを駆逐する勢いを見せて、とうとう東の蒼風、西の豊雲(小原流家元
)と言われるような存在にまでなったのです。
しかし時代はつかの間の光を見せたものの、戦争という暗い時代へと傾斜して
いきました。
勅使河原蒼風にみる草月流の歩み−3
第3期は終戦の年から始まる約10年間です。
つまり1945〜1955年の昭和30年までです。
この時期に蒼風の傑作、名作が目白押しに登場してきます。
いわば蒼風芸術の最大のヤマ場といえます。
戦後すぐの昭和20年11月、主婦の友社において小原豊雲との二人展が早々
と開催されました。
焼け跡も生々しいときでしたから満足に花材や花器もなかったのですが、それで
も蒼風は焼き芋の釜などのありあわせのもので数十点の花を生けました。
美しいものに飢えていた日本人たちや、日本の文化に好奇の目を注ぐアメリカ
の将校夫人たちで会場は連日満員となり大成功でした。
まだこのときにはすぐ後に来る前衛いけばなの兆候は見られず、戦前の作風に
近いものでした。
蒼風が華々しく認められたのは1951年の三巨匠展でした。
三巨匠とは未生流副家元の中山文甫、小原流の小原豊雲、それと蒼風の三人
ですが、その中で蒼風は一段と高い評価を与えられました。
「車」「ひまわり」「二羽の鳥」という伝説的な三大傑作を中心に豊雲、文甫をただ
ひたすら圧倒するもので、当時のジャーナリズムは蒼風に一方的に軍配をあげま
した。
同じ年の第2回日本花道展にはあの有名な「虚像」が登場しました。
古典の二ツ真立華を踏まえたといわれる力強いマッスの造形性には目を見張る
思いがします。
それに先立つ終戦の年には疎開していた群馬県清里村にアメリカ進駐軍のジー
プが蒼風を迎えに来たという伝説的な事件がありました。
在日米軍将校夫人のためにいけばなを教えてくれという要請で、翌年にはバン
カースクラブで外国人教室がスタート、それがひいては蒼風の第4期における旺
盛な海外活動を引き起こす下地になってくるのでした。
下積み時代の看板彫りや団扇の絵描きが次の時代の彫刻家・蒼風や画家ある
いは書家・蒼風を生んだように蒼風の歴史をたどっていくとそこには一切のムダな
時間がなく、本当に密度の濃い芸術的時間をすごいスピードで駆け抜けた一人の
男の人生が浮き出してくるのです。
勅使河原蒼風にみる草月流の歩み−4
焼け跡から拾ってきた鉄くずや焼けただれた木などを使うことによって、日常のモ
ノを独特のオブジェとしてとらえ直し提示しながら、人々にものの見方の意外性を
印象付けたり発想の転換を迫ったのも蒼風芸術の特色です。
それらは前衛芸術と呼ばれましたが、蒼風は決して自らを前衛とは言わず、もっ
と身近な本能的な感覚でさまざまな異質素材を使いこなしていったのだと思います
。
「花がなければどうしても花を探し出してきて生けなければならないというのでは
ないのだ。花がなければ土を生ければいいのだ」
と言うように蒼風にとっては焼け跡のジャンクはいけばな造形のためのひとつの
面白い素材であり、それを取り上げたのも何も奇をてらったからではなく、彼の体
の中から自然に出てきたものなのです。
戦火に明け暮れた室町時代の後半にしゃれ木を使った立華が登場したように、
いけばなはその時代を映す鏡であり、そこにはその時代が落としていったものをタ
イミングよく掬い上げて造形するといういけばな的行為が垣間見えてくるのです。
それはやはり草月流の何でも生ける精神につながるものですが、その素材の取
り上げ方が作者にとってやむにやまれぬ状況での取り上げ方であれば、素晴らし
い可能性となって立ち現れてくるのでしょう。
この時期の蒼風の傑作は乱暴かもしれませんが、大体三つの流れの中に分け
てみることができます。
1) 鉄を溶接することによってそこに純粋な色と形としての花を持ってくるコラージ
ュ的手法
作品例…「車」「群れ」「散歩」
2) 力強いマッス性を強調することによって立体的な造形性を打ち出し、これま
での線の構成を主体に考えるいけばなを打ち破ったこと
作品例…「虚像」「再建の賦」「黙」「玄華」「白い木」
3) 木に色を塗ったり、石膏をかけたり、大谷石を使ったりすることによってオブ
ジェいけばなを発見し、デペイズマン的手法やジャンクアート的な試みをしたもの
作品例…「ミロの鳥」「月の像」「手」
1と2と3は第4期以降に見られる枯れ木の組み合わせによる造形、あるいは銅
や鉄、真鍮などの金属板を木彫に貼り付け、やがてその全面をカバーして一見メ
タルの彫刻と見えるような作品、いわゆる「古事記」連作につながっていきます。
作品例…「樹獣」「くぐつ」
勅使河原蒼風にみる草月流の歩み−5
つまりこの約10年間に蒼風芸術のエッセンスがめくるめく展開されていった
のでした。
もちろんこのような大作の一方、「ひまわり」や「プラタナス」に見られる小品で極
小の世界の厳しさもみせ、それが生活芸術として一般大衆の間に浸透していった
力も見落としてはいけないと思います。
蒼風はアーティストとしても社会に影響力を与えていく人間としても大きな存在だ
ったと思います。
一代にしてこれほど巨大な組織を作り上げた人物はこの世界では他に見当たり
ません。
蒼風の花がいかに魅力的であったか、蒼風の他者への呼びかけがいかに誘惑
的であったか、まさに巨匠としての名に値する家元であったのです。
第4期以降は海外活動をはじめ、着々と芸術的にも組織的にも大成していく順風
満帆の船を見るごとくですが、その過程でレジオンドヌール勲章とか芸術選奨とか
日本いけばな芸術協会の理事長であるとかの名誉を勝ち取っていくわけです。
この辺の30年以降については会員の皆様もお詳しいと思いましたので、今回は
時間の都合上第3期までのお話とさせていただきました。
第4期以降や2代霞家元、3代宏家元についての活動と仕事についてはまたの機
会にじっくりと取り上げていきたいと思います。
今日お集まりいただいた皆様方には現在の草月流、これからの草月流を考えて
いく上で、今私たちは何を捉え、どう行動していったら良いのか、改めて流のポリ
シー、そして作家としてそこにどうかかわり合っていったら良いのかをも含めて検
討していただきたいのです。
最後に蒼風氏の言葉を付け加えて私のレクチャーを終了したいと思います。
これは草柳大蔵の「蒼風は“瞬”にあり」という雑誌「太陽」昭和41年8月号からの
ものです。
「私のいけばなは日本文化に対する“運動”としてのいけばななのだ。
奥座敷に閉じ込められたいけばなを明るみに引きずり出し、あらゆる環境の中
で表現していこうという運動だ。
創作精神のための運動だ。
花を生けるのではない、花を借りて創作のエネルギーを、人間全体を生けること
なのだ。
その運動の担い手が草月流である。
私自身は創作者としてその一部だ。
蒼風は蒼風として一代限り。
受け継がれるのは草月流であって蒼風ではない。」
(了)
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