和の世界への誘い、難しいことではありません。お気軽にお問合せください

 表紙Haruo Hasegawa's memorial works 教室案内期間限定

いけばな 

いけばなへの誘い 

いけばな 教室の花 

いけばな H.H'sいけばなWORLDへようこそ 

いけばな いけばなトーク 

茶道 

茶道 茶道への誘い 

茶道 お茶ってなんだろ 

茶道 やってみよう基本の所作 

茶道 茶道具探検 

プロフィール 

インフォメーション プロフィール 

インフォメーション 教室案内

論文集 

インフォメーション 論文集 

スケジュール 

インフォメーション スケジュール・イベント 

インフォメーション 期間限定 

H'Hの部屋 

無題

映画

インフォメーション 俳句

 論文集TOP

 はじめに

 

 これまで発表してきたいけばなに関する論文を、今後少しずつ載せていきたいと思います。

やや生硬な文章ですが、よく読んでいただければご理解してくださると確信しています。

1篇が原稿用紙25〜30枚程度なので、いくつかの章に分けてみました。

全部で7編あります。以下の通りです。

 

1984.2月

 1) いけばなを分解して再構成する 第10回いけばな論草月賞受賞作    

 

生と死、型と形、花器、場における非日常性など、いけばなを構成している要素をひとつひとつ検証していく中からあるべき姿を模索します。

 

1985.4月   

 2) ゆれるパフォーマンス 第11回いけばな論草月賞特別賞受賞作 

 

華道の歴史をひもときながら、立花と茶花のかかわりに注目し、それぞれがたどっていったプロセスの意味を考え、そこから見えてくるパフォーマンス性こそが現代いけばなを活性化する重要な手段であると認識します。 

 

1987〜1989

 

 3) いけばな作家としての文体とは 

 

 4) 視る制度の解体

 

 5) 失われた時を求めて  

 

 6) 風は見えますか〜内なる自然・外なる自然〜  

 

 7) 壁の向こう側      

 

 “いけばなの現在”シリーズとして5回にわたって雑誌“草月・増刊号”に連載されたもの。

流行作家になる前の仮屋崎省吾、草月から育った韓国のアーティスト崔在銀、孤高のいけばな作家中川幸夫、龍生派の異端児大坪光泉、そして今は亡き鬼才勅使河原宏など、具体的に作品を取り上げていく中でいけばなの可能性を探っていきます。

 

すべて1980年代に書かれた評論ですが21世紀に入った現在でもそれらの諸問題はますます複雑化しており、少しは有効に働くのではないかと考える次第です。 どうぞごゆっくりお読みください。

 

 

1) いけばなを分解して再構成する    

 

2) ゆれるパフォーマンス    

 

3) いけばな作家としての文体とは     

 

4) 視る制度の解体   

 

5) 失われた時を求めて     

 

6) 風は見えますか〜内なる自然・外なる自然〜

  

7) 壁の向こう側 

 

 

新連載  いけばなの歴史を考える

 

2007年2月号から2008年6月号にかけて雑誌「草月」に連載した原稿を基に再び私のホームページに載せていきます。

華道史のさまざまなシーンをキーワードを軸にして掘り起こし、検証してゆくことで、花を生けることの意味をもう一度考え直してゆけたらと思います。

  NEW

第9回 花をいける時間(最終回)

 

 

 いけばなは瞬間芸術であるといわれていた。

利休は朝顔の花だけを床の間に生けて早朝、秀吉を待った。

直ぐにしぼんでしまう植物に最も輝いた一瞬を与えてやりたいと思った

に違いない。

その生のためには多くの朝顔を切り取るという死の裏づけが必要とされ

た。

それをめでる茶人も武将も限られた命という現実の中からは逃げ出せな

い。

数年後利休は自刃して果て、またその数年後秀吉も死の床についた。

あの茶会は朝顔という花をかいした、まさに一期一会の出会いであった。

朝顔ではないが芭蕉にこんな句がある。

命二つの中に生たる桜かな

            「野ざらし紀行」 1684〜85

弟子の服部土芳と京都で19年ぶりに再会を果たしたときの俳句だが、芭

蕉翁には目を瞑ってもらって、「活けたる朝顔よ」と勝手に直して読ん

でもなかなか味わい深いものがある。

利休はいつまでも咲いている菊などは好まず「盛リ久キ花」「結構過ギ

ル花」を避け、すぐに散ってしまう花を愛したといわれる。

そうしたものこそ時の流れのいとおしさを感じさせてくれる大切な象徴

であったのだろう。

「床に絵花これあるときは、花は時の賞玩たるによって、花を見、後に

絵を見るなり」という村田宗珠の言葉をみれば茶人の花に対する思い入

れがわかるが、利休はさらに床の間から掛け軸を取り去り、その壁の中

央に花を生けた。

茶会の中で最も重い道具と言われる軸と同じ比重で花を尊崇したのであ

る。

花は「いのち」であり、茶道具に囲まれた茶室の中での唯一のうつろう

時間そのものであった。

花を立てることに興ずる人たちはその命の短さを惜しみ、できるだけ延

命させようとした。

「出血を止めるために灼熱した炭でお前たち(花)を焦がしたり、循環

を助けるためにからだの中へ針金をさし込むこともあろう。塩、酢、明

礬、時には硫酸を食事に与えることもあろう。お前たちは今にも気絶し

そうな時に、煮え湯を足に注がれることもあろう。彼(生花の宗匠)の

治療を受けない場合に比べると、2週間以上も長くお前たちの体内に生命

を保たせておくことができるのを彼は誇りとしているだろう」

                岡倉天心「茶の本」1906年

花の立場に立って書いているためやや皮相な見方だが、しかしこうした

「治療」にもかかわらず、朽ちていく時間は容赦なしに訪れ、いけばな

は夢か幻のように消え果ててしまう。

そこで彼らは作品を保存し、残していこうという切なる思いから、でき

るだけ活けられた形に近いパターンを想定して、型というものを編み出

し、その型を守り続けていくことによって時の流れの非情さに対抗しよ

うとした。

マニュアル化された生け方にのっとって型はパック化され人から人へ、

時代から時代へと継承されていった。あるときは花伝書に記録され、あ

るときは絵師によって鮮明に描写されながら、またそれに足りないとき

は口伝という直接的な手法で引き継がれた。

その過程で強固な人的組織が必要となり、家元制度が生まれるべくして

生まれ、そのシステムは時間との戦いの中で、ある意味優れた力を発揮

してきたとも言える。

型はその時代によって先導された理念という鎧に覆われ、一体となって

人々を引きつけ、あるいは捨て去られていった。

生き残ったものも敗者も、大きな時間という波に飲み込まれ、もてあそ

ばれ、片道切符を手にしてたどり着くことのない孤独な旅を続けていく

ことになる。

その中で喝采を受けることもあれば、どん底を味わう事もあった。泥ま

みれになった花たちはそれでも前進し続けるほかはない。

これまでの論考がことごとく時というものと密接にかかわっており、根

源的、宿命的に大きな影を落としていることに改めて驚く。

いけばなはその素材として、植物という「いのち」そのものを取り上げ

たことによって、その後の展開を運命付けられたといっても過言ではな

い。

なぜかくも不安定な素材に執着したのか、そこには日本人の根底に流れ

る本能的な思想観があるようだ。

「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮か

ぶうたかたはかつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし」 

            鴨長明「方丈記」1212(建暦2年)

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。

沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」       

                     「平家物語」鎌倉時代 

例を挙げれば枚挙に暇がないが、すべて日本人の時間に対する無常観や

諦念を表現している。

四季の移り変わる風土の中で育てられたことによって、人々はさまざま

な季節にちなむ行事を考え出し、実行してきた。それほどフォーマルで

なくとも人々は花見や月見などを通して自然と密接な関係を作り上げ、

その中で過ぎ行く時間を慈しむというライフスタイルを築き上げたのだ

いけばなの世界でも室町時代の七夕法楽の花御会などは唐物の花入れを

並べ立て、そこに花を立てて楽しみを分かち合ったりした。

そうしたセレモニーは平板に続く時間を一瞬切り取って立体的に立ち上

がらせて見せることができた。

だがそうした営みも近年だいぶ簡略化されてしまい生活にメリハリがな

くなりつつあるようだ。

前衛いけばな運動によってさまざまな人工的な素材が導入されたことも

時間というものを意識して打ち出されてきた展開ではあった。

芸術としてのいけばなであるためには直ぐに消えてしまうひ弱な作品で

は満足できなかったのであろう。

これによって作品の幅は広がったが、自然と人間との距離感も広がった

ことは確かだ。

場としての要請もあった。

デパートのウインドウディスプレーなどの商業空間や公共の建物に長い

期間飾られることを前提とした依頼は、いけばな作家が造形作家に変身

せざるを得ない状況を引き起こし、植物を見つめるはずのいけばながコ

マーシャリズムの中で立ち往生し、本来のいけばなとは何かというアイ

デンティティーが改めて問い直されることとなった。

 つまり時間というものがそれぞれの要請によって徐々に引き伸ばされ

ていき、もともと時間が有している真実の一瞬が見えにくくなっている

のだ。ビデオやCD、DVDなどの普及はさらに時間を複製化し、いつ

でも好きなときに収録された世界に行けるという利便性を得た。少し前

までは映画館に行かないと見たい映画は見られず、うっかり重要なシー

ンを見過ごしてしまえばそれまでだったが、今ではちょっと止めて前の

場面を見ることができ、昔のような時間に対する緊張感が現代において

は欠落してしまったのだ。    

さてこれまでいくつかのキーワードを介して、いけばなの歴史という時

間の塊に目をむけてきた。

虚子の名句に「去年今年貫く棒のごときもの」という時の持つイメージ

があるが、切れ目なく連続していく時間の中で、先人たちが苦闘の末に

切り開いてきた、さまざまな花を生ける工夫、技術、思想は守られ、革

新され、淘汰され、そして現在まで引き継がれた。

 そんな歴史の埃の堆積に目を向けてみても何の役にも立たない、花は

未来を革新していくべきだという考え方もあるが、きちんとしたいけば

なに対する歴史観がなければ、直ぐに朽ち果てる砂上のあだ花をいたず

らに咲かせるだけであろう。

壁に当たった時、人生を振り返るように、少し立ち止まって華道史をひ

もといてみるのも花人の秘かな楽しみの一つである。

その宝を生かすのか殺すのか、私たちには大きな課題が化せられている。

(完)

NEW

第8回 花をいける人たちーその2ー

 

 

 前衛いけばなが隆盛を極めた1950年代、とある花展のいけこみ会場

に足を踏み入れた一人の評論家の目の前には奇妙な光景が広がっていた。

それは「六十をすぎたと思われる老齢の婦人が、たすきがけで鉄線や石

膏と取り組んでいる」姿だった。

(「流派組織と前衛いけばな」青地晨…小原流挿花・「戦後いけばなの

歴史」特集号より)

 「それまで前衛いけばなと呼ばれるものは、覇気と野心にあふれる若

い人びとの占有物だと考えていた」彼はそれが間違いだったと気づき、

「いけばな革命が、どうしてこうも急激に全国のいけばな界を風靡した

のか、はじめてその秘密をのぞき見する思いがしたのである」と認識を

改めている。

 ここまで婦人たちを熱病のように駆り立てたものは何だったのか、私

はもう一つの要因に思いをはせた。

日本は敗戦という一大ターニングポイントを迎え、これまでの軍国主義

から民主主義へと時代の波が変わり、女性たちにはそれぞれの生き方を

新しく自立したものにしようという試みがなされ、革新的な時代の気分

が日本を覆っていた。

 いけばな界も勅使河原蒼風をはじめとして小原豊雲、中山文甫らが自

由で新しい精神を掲げこれまでのいけばなを否定するかのごとき作品群

を次々に発表していった。

このような中で親から強いられたお稽古事といった江戸時代からの考え

方は一掃され、戦後美術の前衛運動とも結びつき、自らが積極的に表現

していくことの面白さに目覚めることとなり、多くの女性たちをとりこ

にしたのである。

 蒼風はいけばなは芸術であると言い切り、しがらみの多い日本の伝統

文化の中で華道がいち早く脱皮していくきっかけを作った。

それは草月ブームという言葉さえ生みマスコミや世間の注目を浴びた。

 またバンカースクラブでの蒼風による在日米軍将校婦人たちへの花の

手ほどきは多くの海外の支持者たちを育て、巻き込み、後のいけばなイ

ンターナショナル結成にも繋がっていき、「いけばな」の語が世界にも

通用していく。

 そのような流れはやがて家元以外の作家たちを輩出し、特に東横百貨

店で行われた「東横いけばな展」においてはコンクール形式(昭和26

年〜38年)がとられ、華道関係者たちによって選ばれる賞と美術など

の他分野の人たちによって選ばれる賞の2部構成になっており、出品者

たちは賞取りにしのぎを削った。

もともと日本の伝統芸能の中においてはプロとアマの区別があいまいで

ある。

 例えば茶の世界ではある意味では素人である茶人たちが花を生けるし

、秀吉や信長などの武将も一輪の花を生けていたのだ。

数多くの役枝の煩雑な決まりのある立花がプロの花であるとしたならば

、茶花は誰にでも生けられる融通の利く花なのである。

 そのアマチュアリズムこそが花の可能性を広げていく要素になるので

はないか。

 だが悲しいかないけばなは作品が時間的な制約を受け、作品としても

自立できず買い取ってもらうこともできない。

沢山の弟子を養成し、生け方のマニュアルを切り売りして伝授していく

、いわゆるレッスンプロとして生きていくか、さまざまな場所を交渉し

てそこに花を生けて収入を得ていくかしか残された道はない。

それとは別に作家である限り自分自身の作品を開拓し、発表する場を持

つ努力も必要となる。

しかしもっと退いてみれば美術や音楽などすでに芸術として公認されて

いるメジャーな世界でも似たり寄ったりなのかもしれない。

ほんの一握りの選ばれた人たちが真に作家という肩書きを手に入れるこ

とができるのだろう。

 逆に考えればそれほど作家にかかってくる重圧は重く、厳しいもので

あるといえる。

 東横いけばな展からは有望な若者が巣立っていったが、決して自分た

ちのテリトリーから逸脱せず、「前衛」を社会的前衛としてではなく、

造形的前衛として解釈しそれぞれの流派に帰っていった。そうしなけれ

ば自分の存在する場所がなくなってしまうという危機意識はよくわかる

 組織とのかかわりを潔く捨て、前衛の意味を自分なりに貫き通してい

る中川幸夫のような作家はきわめて特異な存在であろう。

 さて集団の長である師匠と弟子の関係性の中からいけばなの歴史は何

を学び取ったか、少し考えてみたい。

庭にあるすべての朝顔を切り取り、たった一輪に思いをこめ侘茶を完成

させた千利休だが、彼の高弟・古田織部が花を生けたときのこととして

次のような記述が見られる。

 

「トカク花ハ織部ニハ不及トコロアリ 籠ノ花生ニ牡丹ヲ五輪マデ入ラ

ル」

             (「槐記」・遠州の言葉)

 

中国では花の王と呼ばれるあでやかな大輪の牡丹だが、それをなんと5

輪も入れて平然としている織部様には敵わないと小堀遠州が述懐してい

るというのだ。

利休の侘びの美学と織部のモダンな感覚は外側から見れば全く相反する

ものとしか認識できないだろう。織部にしてみれば、師の求めた形への

こだわりを捨て、師の精神を突き詰めていったことで、全く自然に抽出

された茶の道の美学なのだ。

利休は弟子の生き方を尊重する大きな器を持っていたので、この師弟は

最後まで幸せな関係を維持することができた。

いけばなの世界ではどうであろうか。織部と似たような例として、池坊

二代専好の弟子であった大住院以信がまづ浮上する。彼は師匠の教えを

守りつつそれを大きく転換する独自の考え方で表現を模索した作家であ

る。

しかし師が亡くなった後、彼の花の道は守旧派である高田安立坊周玉な

どからの抵抗が激しくなり、あまりハッピーな結末にはならなかった。

それでも大住院はその圧力をものともせず自由な花材、大胆な構成

で強烈な立花を打ち出していった。

 

 「大樹院に至りて古今の精緻を尽くしに尽くしてもはや上なきになり

たり」

「アレハ多羅尼ヲ唱テ、タメルナラン」

               (槐記)

 多羅尼とはいろいろな功徳を受けることができるという梵字で書かれ

た経文で原語のまま読誦するもの。

周りで見ている人たちはまるで魔術師のような神がかり的なパフォーマ

ンスに魅入られていたことがこのほんの短い文章からも想像できる。

1677年(延宝5年)にはまだ幼かった池坊専養に代わって周玉が大

住院の七夕立花興業権差し止めを京都奉行所に訴えたとも言われている。

 確かに彼の作品は特異で「大住院立花砂之物図」をひらくと師である

二代専好の端正な気品とは対極をなす豪快で華麗な花々がめくるめく展

開されている。

 真に作家たろうとするものは行く先々に高いハードルが待ち受けてい

る。

そのハードルは場合によっては自身の存在を賭してまで飛ばなければな

らないものであろうとも、真っ直ぐに、虚心坦懐となって向かわなくて

はならない。

そうすることで作家は初めて作家として自立していく。

ただ単純に作品のみに集中していれば良いといったような楽観論は吹

き飛ばされてしまうだろう。

何しろいけばなはタテ社会の人間関係の中で育っていかざるをえないも

のなのだから。

 さて話は最初の前衛いけばなに熱中した女性たちに戻る。

彼女たちはその後どんな道を歩んだのだろうか。

またもとの主婦に帰って家事に追われながらも幸せな家庭を守り通した

のだろうか。

或は花の世界のリーダーとなって多くの弟子たちを育て上げたのだろう

か。

いづれにしても彼女たちはあの熱い時代を誇りを持って思い出すことが

できるだろう。

いけばなが自己実現のために役立ったのならこれ以上の幸せはない。

結局は大衆の支持がなければ花は生きてはいけないものなのだから。

(了)

NEW

第7回 花をいける人たちーその1−

 

 いけばなというとどうしても生けられた作品だけに目がいってしまい

 がちだ。

 作品本位になることは一つの芸術としてみるならば当然のことで、作

 家はできるだけベターな造形物を観客に提示していかなければならな 

  い義務と責任がある。

 しかしその背後にはさまざまな人間関係が存在し微妙にその作品に影

 響を与えていることも見逃せない事実である。

そもそもいけばなが職業として成り立ったと思えるときはいつ頃のこ 

とであろうか。

足利義政の東山時代に書院造の床の間や違い棚にいろいろな道具を飾り

つけるための一つのものとして花を生ける法式が生まれた。

もちろんそれ以前にも庶民の間や寺院の中では供華のための花が飾られ

ていたことは今に残る絵巻物や行事を見ればうなづけるが、将軍の屋敷

を荘厳化するためにはきちんとした法が必要であった。

それを具現化するために同朋衆と言われるプロ集団が力を発揮したが、

室町幕府が倒れ、それによって彼らは支持基盤を失い消滅していかざる

を得なかった。

それとほとんど並行して池坊の僧たちによって花の生け方が伝承されて

いった。

1599年(慶長4年)には池坊初代専好による百瓶華会が京都大雲院

の落慶法要の際に興行された。

その時の東福寺・月渓和尚の序文には

「夫れ洛陽繁華の地、六角と名づくるところなり。真に市の中隠なり。

これによつて寺あり、頂法と号す。その乾にあたり深居あり、名づけて

池坊といふ。累代華を瓶裡に立つるをもつて家業となす」

というようにその時代をリードしていたことは確かだが、291号でも

述べたように出瓶者100人中86人を僧侶が占め、残り14人が武士

、町人だった事を考えるとまだ花が一部の階級にしか浸透していないこ

とがわかる。

しかし次第に町衆たちの支えをベースに貴族や上皇らのいわゆるパトロ

ン的立場にある人たちの絶大な支持を集め始めた。

池坊二代専好の花会は後水尾院が取り仕切り、そこに集まる人たちは専

好の生けた作品を絵師に書き取らせ、それを貴重なお手本として修練を

重ねた。

彼の死後、大住院以信という型破りな作家が登場し、今度は江戸の武士

階級の支持を取り付け、立花をさらなる段階に導いた。

17世紀後半から元禄にかけてのこの時代はいろいろな花伝書が印刷技

術の向上とともに一般庶民にも容易に手に入りやすくなり、加えて前回

触れたように花卉栽培が盛んとなり樹木や花がこれまた容易に手に入れ

ることができるようになった。

そのような状況が整った江戸中期以降には花鋏一つで世の中を渡り歩く

いけばなの師匠が登場してくるのである。

師匠は沢山の弟子を養成していくことで生活が成立し、ここにおいて漸

く職業としての道が切り開かれたのである。

彼らは自分たちの生け方や形を教え、守っていくことによってさらにそ

の基盤を強固にしていく。

ひとりひとりの弟子に対応しきれなくなると、名取という免状制度を取

り入れ、直接本人から教えを受けなくとも一介の師匠として認められ、

さらに多くの弟子たちを獲得していくことができた。

例えば正風遠州流門人録の「華道社中連盟」1814年(文化11年)

には845人の名前が挙がり、そのうち江戸が501人、関東各地が3

44人となっており、江戸を中心に街道筋、河川などの交通の要地や秩

父、上州などの景気の良い機業地に広がっていったことが記されている

これが家元制度の始まりであり、江戸時代の士農工商という封建的身分

秩序をバックボーンとしたものであることは言うまでもない。

またこの制度はその当時ほとんどが男性中心の組織構造をしており、「

古流生花宗匠伝」1829年(文政2年)の記録を見ると宗匠445人

中女性はわずか3人だけであった。

それでも華道に限らず芸能の世界がもてはやされたわけは、封建制度下

においてその身分制の壁を乗り越えることのできる希少なジャンルだっ

たといえるからだ。

ただの町人があわよくば苗字に匹敵する花名をもらい、違う自分に変身

したかのような心地良い錯覚を楽しむことができたのである。

また各流派は弟子獲得のため、つまり営業利益を高めるため、自分たち

の流の格付けや伝統の古さを強調しようとさまざまな試みをしている。

例えば源氏流や遠州流などの名称は、直接それらの事物や人物に関係が

ないのだが、そのイメージを巧みに利用している。

いけばなはこうして一般大衆を巻き込みながらついには女性たちまでを

も取り込んでいくこととなる。

「薄雲図」(1658〜1672年頃)は太夫と呼ばれる最高位の娼婦

が炭を土台にして花を生けている珍しい絵である。

豊臣秀吉の許可よって始められた擬似宮廷の場であった廓は1588年

(天正8年)が最初だといわれるが、そこには贅沢な座敷とともにそれ

を荘厳化する座敷飾りが必要とされたあたりは義政の空間のコピーその

ままの発想であり、そこに起居する女たちはいけばな、茶道、舞踊、音

楽などその当時の文化全般にわたって高い水準の技能を身に付けていな

ければならなかった。

浮世絵にも女たちと花会の絵は少なからず散見され、北斎の「吐雲楼生

花会」、栄松斎長喜の「風流生花会」、歌麿の「松葉屋瀬川」などに登

場している。

これらは一部の階層にとどまらず、広く町人の娘たちにも浸透していく

今でいうタレントやアイドルたちでもあった遊郭の女たちのすることは

普通の女性たちの憧れでもあったのではないだろうか。

そうした積極的な受容があったと思うが、その反面、お稽古事として、

あるいは躾として身に付けなくてはならないものとしてあったことも確

かであろう。

式亭三馬の「浮世風呂」の中に次のような一節が見えるのは興味深い。

 

 朝むつくり起きると手習のお師さんへ行ってお座をだしてきて、それ

 から三味線のお師さんの所へ朝稽古にまゐつてね、内へ帰って三味線

 や踊のおさらひさ、其内にちいつとばかりあすんでね、日が暮ると又

 琴のおさらひよ、夫だからさつぱり遊ぶひまがないからいやでいやで

 ならないはな、

 

 いけばなは出てこないが嫁入り前のお稽古事にがんじがらめに縛られ

 てしまっている娘の嘆きが良く伝わってくると思う。

 

 さうさ、花を生けるの、琴をひくのと世帯もちのいらねへ事さ、飯を

 たいて着物をぬって内外の者の身じんまくもして物はすたりのでねへ 

 やうにすりやあ女房の役は沢山だはな、それが気にいらざあ、先さま

 の御無理だ

 

 三馬は今度はそうした状況に対する反発を男の側から描いて、江戸下

  明治に入ると文明開化に象徴される欧化主義のためいったんいけば

 なは衰退の道を辿ったが、20年代頃から志賀重昴などによって国粋

 保存運動が叫ばれるようになり、さらに条約改正の失敗から国家主義

 が息を吹き返してきた。

 当時の文部大臣・森有礼は「国家を思ふの精神に厚い良妻賢母の養成

 をなし、以って国家の富強に資せん」として女学校でいけばなを教科

 として取り入れる動きを作った。

 この頃より女性の師匠が急激に増加し、明治30年代には「婦人世界

 」「女学世界」「婦人画報」大正年間には「主婦之友」「婦人倶楽部

 」「婦女界」などの女性向け雑誌のグラビアなどにいけばなが頻繁に

 取り上げられるようになった。

 また都新聞社による華道家人気投票は恒例化し、1925年(大正1

 4年)から始まったJOAK(東京放送局…日本放送協会の前身)のラジ

 オ放送にも華道講座が人気を集めるなど、マスコミの援護射撃でます

 ますいけばなは多くの女性たちを巻き込んでいったのである。

 この流れは現在にも及んではいるが、いけばなは花嫁修業のお稽古事

 から脱却し、女性たち一人ひとりの自己実現の場となり大いに有効な

 ものとして働いているかに見える。

 そのところの考察は次回にゆだねたい。

(了)     

第6回 花をいける「素材」

 

  花を生ける行為の中からさまざまな要素を取り出してこれまで論考し

 てきたが、今回は花そのものに的を絞って考えていきたい。

人は花と出遭ってその美しさ、妖しさ、力強さに惹かれ、直ぐに枯れつ

くしてしまうはかないものであっても少しでも延命させて身の回りを飾

りたいと思った。

「ももしきの大宮人はいとまあれや梅を挿頭してここにつどへる」の歌

にあるように髪にかざったり、採物といって手に持って踊ったりと、そ

こには呪物の象徴としての花と人との交流が見られる。

花は端とも鼻ともイメージされ、物の先端で前兆や予兆などいろいろな

兆しを示すものとして人々に畏敬された。その年の豊作を神に約束させ

るための「予祝」として使われてきたこともうなづける。

そんな花が供華となり、だんだんと宗教性を離れて日常生活に浸透して

いくことになるのだが、いつも花にこめられた精神性が生ける人たちの

頭の中に残存しており、切ることに対する恐れを抱き続けた。つまり物

として突き放した見方ができにくく、客観的な理論付けがなかなか難し

かったのである。

花の出生を大事に考えるという捉え方などもこの延長線上に生まれてき

たものであり、まして文人花の思想などは花と人間が一体化してしまっ

たところからきている。

だがあえて花の尊さを強調しなければならなくなるということは、裏を

返せば花の受難の時代が到来していたともいえよう。

 

「立花は宮、御門跡がたの手業なり。

 野辺遠き四季の草花、品々を見給はぬ人のために、深山木の松、柏、

 しば人の 手にかかるを集めてあそばされしに、近年いづれも奢る心

 より用捨せず、接木の椿をもぎとり、鉢植えの梅もどきを引切、霊地

 の荷葉を折せ、神山の椙をとりよせ、我がままのふるまひ、草木心な

 きにしもあらず、花のうらみも深かるべし。是只一日の詠め、世の費

 なり」

              西鶴織留 西鶴(1642〜1693)

 

当時は立花が全盛で、大きなシンになるものや沢山の下草を調達するた

めに東奔西走して探し出し、何日もかけて制作するなど多大な出費と時

間を浪費し、自然破壊に手を貸したことに対する痛烈な批判である。

現代においても自然と人間との共存が叫ばれている中、遠い江戸時代の

こととして放っておけない一文ではある。

十七世紀の日本の花卉栽培は当時の世界レベルから考えても最高水準を

ゆくほどの黄金期を迎えていた。徳川三代にわたって将軍たちの異常な

ほどの花癖が感染し、寛永十五年(1638)には幕府の手によって初

めて薬園が大塚や麻布に開かれ、植物の栽培についての解説書である「

花壇綱目」(水野元勝著1681)や貝原益軒の「花譜」(元禄年間)

、染井花戸三之丞の「花壇地錦抄」(元禄八年・1694)などが出版

された。江戸近在の農家は花卉栽培にいそしみ、浅草あづま橋などの朝

市にそれらを出荷した。それに前後して下草屋と呼ばれる花屋の前身が

営業を開始し、花売り町人や植木屋も江戸の町に現れるようになった。

 中国からの影響を脱却した室町ルネッサンスと呼ばれる花卉園芸の発

展的時代には椿、桜など高木性の花木が改良されたが、さらに江戸では

椿の爆発的な流 行に至り、珍種の開発や「百椿図」(寛永十二年・1

635)等も出版された。

 十八世紀の明和・天明期には大ぶりな枝ものもたやすく手にはいるよ

うになった。

 これらの状況はますます花を生けるという行為を大衆化してゆき、そ

れまで僧侶・貴族・武士が独占していたいけばなは、経済的に潤ってき

た商人やパワフルな町人たちに引き継がれていった。 

 

「当世、生花の宗匠多く京都より下り、あるいは大阪よりまかりたるな

ど、何流彼流と宿札打ちては、江都繁華に遊人多く、それぞれの門人と

なりて、先生先生と呼ぶ」

      当世垣のぞき 石浜可然(明和三年・1766) 

 

以前に紹介した千葉龍卜もその中の一人だったが、このように花鋏ひと

つを携えて世の中を渡っていくことが可能となり、ひいては婦女子のた

しなみとしていけばなはその間口を広げていくこととなる。

1893年(明治二十六年)に新宿御苑に加温式の温室が建てらたこと

をきっかけに、自邸に温室を設置し、南方の植物を育てることがステイ

タスとなった。それらは園丁によって管理され特権階級の人たちのみが

楽しめる空間であった。

1900年(明治三十三)には辻村常助によって大規模農園が小田原に

作られ、1910年(明治四十三)には横浜洋花商組合が設立され西洋

の植物も生産・流通の段階にまでこぎつけた。

この時代はいわゆる洋花が一気に人々の生活圏に溢れ始め、それにした

がって小原流はいち早くそれらを取り込み、色彩盛花スタイルを確立し

たことは前に触れた。またブケーやコサージュなどがパーティーで脚光

を浴び、その解説書である「盛花と贈花」(1908年・明治四十一)

が出され、前田曙山も「花卉応用装飾法」(1911年・明治四十四)

を著した。

昭和になると洋花の切花生産が事業化されるようになり、外国産の植物

には「出生」などということ自体ナンセンスになってしまい、作家たち

は自分自身の感性を鋭く磨いてそのつど新しい花たちと対峙していかな

ければならなくなった。

第2次世界大戦が終わり、日本が焦土と成り果てたときに、その焼け焦

げた木やひん曲がった鉄線などに注目し、それらを拾い集めて花を添え

新しい感覚のいけばなを提示したのが勅使河原蒼風だった。それらはオ

ブジェいけばなと呼ばれ大衆を瞠目させた。蒼風は戦後のいけばな界を

リードし花や木のほかに鉄・ガラス・プラスティックス・石・布・紙な

ど多岐にわたる物質をいけばな素材として使いこなしていった。

 

わたしはあるとき人からきかれた。「あなたはもしも満州のように花の

ないところに暮らしたらどうしますか」と。わたしは答えた。「土をい

けるでしょう」と。                   

                      勅使河原蒼風花伝書 

 

花の前に「いける」があるという徹底的な造形精神は花を芸術にまで高

めようとした彼の高邁な理想に裏打ちされたものであった。戦争がもた

らした遺物の中から新しい展開が用意されていたことを思うと複雑な感

慨が湧いてくることも確かだ。安土桃山の荒れ果てた戦国時代に、風雨

や日に晒され風化した曝れ木を取り上げて立て花に生けた事例なども残

っている。

さらに植物以外の人工的な素材を使った例としては永享五年(1433

)に足利義満の花御会で「草花得難きの間、異形之物等立」とあり種々

の作り物を花の代わりに立てたようで、その異形のものとは今は想像す

るしかない。「古今立花大全」(天和三年・1683)の中では松の葉

を染めたり、赤い椿に硫黄をともして斑を入れるなどの細工をほどこし

て使っていたらしい。 

さて現代に立ち返ってみよう。論考の中で触れたように、いま我々いけ

ばな作家が問われていることは、人間はどう自然と関わって生きていか

なければならないかということだ。

花を手にし、花を切るとき、そしてその花を生けるとき、われわれのす

べての行為は自然から見られていると思うのは私だけだろうか。

(了)

(全3ページ)   1  2  3  次ページへ